喫茶店のナポリタン〜ふたたび、前田久夫さんのこと〜

前田さんが自転車事故の示談交渉を依頼していた弁護士とケリをつけた後の数週間は、安定しているように見えた。彼がうちのデイに通ってきているので、わざわざ何かの確認のために訪問しなくてもよくなった。それで僕の負担が減ったことも安定しているように見えた要因だと思う。

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メリーゴーラウンドに乗って

僕がケアマネとして前田さん宅を訪問するのは、主に介護サービスの調整のためである。ちょっとした世間話を入れても30分もあればおつりがくる。でももはや周知のことと思うが、前田さんにつかまると3時間は離してくれなかった。僕も途中で何度か話を切ろうしたのだが、そんな素振りをみせると、彼は「え?もう終わり?まだ話の半分もすんでいないよ」という期待を裏切られたような、びっくりしたような表情を顔に浮かべた。

そのために僕は前田さんがある程度満足するまで、えんえんと話を聞くことになった。こうして対面していると話が切りにくい。せめて電話を持ってくれと思ったが、前田さんはやはり電話を設置する気も携帯電話を持つ気もなかった(携帯電話の操作ができるとも思えなかったが)。

こないだの弁護士との話し合いも結局3時間30分かかった。朝の9時10分から始まり、終わったのは12時40分だった。弁護士は最期にはかなり苛立っていて、一刻も早くこの場から立ち去りたいようだった。メリーゴーラウンドに乗りながら、全く面白くない1人漫才をえんえん繰り返し、聞かされているようなものだ。だから弁護士の気持ちはわからないではない。というか、じゅうぶん分かる。

前田さんの最期の砦になる人は

でも僕はそのやりとりをずっとみていてこうも思った。この弁護士は最初から最期まで前田さんの話には何一つ共感の意思も、態度も示していなかった。出会った当初はプロらしく面談をしていたのかもしれない。しかし、度重なる不毛なやりとりが彼を砂漠のど真ん中に放り込んだのかもしれない。

かつては水をたたえ、緑豊かだった場所は、今は暑く空気は乾燥していて、水が一滴もない。砂漠は広大で、どこに進んでいけばいいかさえわからない。昼の太陽は彼の目と喉と肌を容赦なく焼き、夜の月は何も語ってくれず朝露だけを残して消えるだけだ。そんな日が毎日続き、彼は途方にくれているのだ。弁護士が前田さんと交わした会話には、どこかそんな砂漠の風景を連想させるものがあった。

でも弁護士は結果的に仕事はちゃんと果たした。彼にしたところで、けっきょく示談交渉を終わらせなければ自分への報酬が発生しないのだ。だからあれだけ我慢強く関わっていたのだと思う。
僕にしたところでケアマネージャーとその利用者という特別な出発点があるからこそ、付き合えるのだ。利害関係も何もない普通の人が前田さんの長話に付き合い、彼のニーズを満たしてやれるのは難しいだろうと僕は思った。

それならやはり手間はとられるが、専門職である僕たちが支えなければいけないはずだ。僕はこう思ったからこそ、彼に付き合えたのだと思う。別に正義感ぶっているわけではないが、在宅生活においてはケアマネージャーが最期の砦になるのだ。ケアマネの人生観、ケアの価値観、そして実務的なコーディネート力によって、援助内容は全く違ってしまう。それが介護という仕事の特徴であり、面白みではあるのだが。

出かけるまでの手順が多すぎて外出できない人

前田さんの場合は、高齢になるにつれて話が長く、くどくなっていったのだと思う。加えて、彼はもともと自分が納得いくまで、とことん引かない性格の持ち主だったのだろう。年を取ると性格がより濃く煮詰まっていく。

こだわりが大変強く、自分が決めた手順で物事を運ばないと納得できなかった。1日のスケジュールを細かく立て、紙に書いて壁に貼り付けていた。そのスケジュール通りに動いていくのが彼のこれまでの生活だったのだ。

朝は6時に起き、ぬるめに沸かせた白湯で漢方を飲む。書類のチェックをする。冷蔵の中身を確認し、買い物するリストを作る。かつては掃除、洗濯などを行っていたはずだ。診療時間内に病院にリハビリに行く。その帰り道に近くの喫茶店でナポリタンスパゲティを食べる。3時くらいまでそこで新聞を読んで過ごす。
その後、スーパーに行き買い物をして帰宅。その後は分厚い医学書(の他にも健康に関する本が山ほどあった)を虫眼鏡でじっくり読む。校閲の仕事でもしているんじゃないかというくらい、時間をかけて一行一行読んでいく。「そうだ、明日は神戸に漢方をもらいに行って、帰りに銭湯にでもいこうか」なんてことを考えながら1日が過ぎていく。

前田さんの1日の流れは、だいたい上のような感じだった。でも自転車事故にあい、歩行に支障がでてからは、とたんに物覚えが悪くなり、体が動かなくなってきた。物事に強くこだわる性格が重い鎖となって、生活を逼迫していた。
どこかに出かけるにも彼なりの手順があるらしく、その手順をすべて踏まないと出かけられないのだ。そのため漢方薬をもらうための病院受診に間に合わないこともあるようだった(その病院は電車に乗らなければいけなかった)。

以前ならまだ体が動いたから、細かい手順通りに動く生活も可能だった。でも今では全身の機能が低下しているために、以前のように動けない。そのため準備に時間がかかる。そのため、けっきょく本来の目的であるはずの病院のリハビリ通いもできなくなってしまった。本人はリハビリを続けたい希望を強く持っていた。だから代わりに送迎つきのデイサービスに通ってもらうことにした。

デイサービス◯、訪問介護は☓

僕は必要だと思われる介護サービスとして、訪問介護も薦めていた。近くのスーパーへの買い物だけでも3時間くらいかかっていると聞いたからだ。しかも普段食べている内容がレトルトの豆と缶詰だけというのも気になっていた。外食してそれなりに栄養は取っているのだろうが、普段の食生活についてもっと詳しく知っておきたいと思っていた。そのために訪問介護を利用してもらいたいというこちらの思惑もあった。そうすれば訪問介護員から生の情報が取れるからだ。同居家族のいない前田さんの生活上の情報は、本人の話と部屋の状況からしか取れない。

介護施設であれば、一つの建物内で生活が完結していて、24時間介護職員がいるから情報ならいくらでも取れる。だが在宅だとこうはいかないので、ちょっとしたコツが必要とされるのだ。

でも前田さんは「自分が食べるものは自分で選びたいですから」と言って、訪問介護の利用も断った。食べるものって、あなた、豆と缶詰だけじゃないですかと僕は思った。いつも買うものを訪問介護員にしてもらえば、ずいぶん時間に余裕がう生まれたと思う。
でも「いえ、まだヘルパーさんはいいです。自分でできることは自分で行いますから」と断られた。それだけはっきり断られると、無理に導入することもできない。

それならせめて高齢者向けの弁当を配達している会社がある。そこを利用したらと提案したが、それも断られた。「ぼくは食べ物にこだわりを持っていましてね、味にもうるさいんですよ。弁当というと味が濃いでしょ。口には合わないと思います」と言った。喫茶店のナポリタンスパゲティは食べられて、高齢者向けをうたう弁当は食べられないのかと思ったけれど、もちろんそんなこと彼には言わなかった。

「1日2食」、「普段の食事は外食」といった人のケアプランはどうする?

彼は明らかに低栄養になる可能性があった。すでになっていたかもしれない。だが、彼のこれまでの食生活を全面否定して、栄養学的に完璧な食事を押し付けるのも間違っていた。例えば要介護になる前から、それなりに栄養を考えれられた食事を3食きちんと食べてきた人、こういう人ならその生活習慣を守る必要がある。
でも前田さんは要介護(支援)になる前から、今のような食事内容の人だった。もともとあまり多く食べる人ではなかった。過食は不健康につながる、というのが彼の考えだったからだ。

前田さんに限らず、生活習慣として食事は1日2回だけという人や、食事は自炊せず外食や惣菜でまかなってきた人なら、要介護になってもそういう生活を続ける権利が彼らにはある。生活習慣を守るのが我々の仕事だからだ。在宅のケアプランを考える時、そうした「これまでの生活習慣」をきちんと考慮しなければいけない。

前田さんの今の冷蔵庫の中身だけを見て、「これはいけません。低栄養の危険性があります。訪問介護で調理代行をしてもらって3食しっかり食べてもらいましょう」という単純な発想のケアプランにはならないのである。そんな発想なら素人でもできる。もちろん一般常識として食事内容のアドバイスくらいはするけれど、要介護者に限らず、「3食とも健康的な食生活をしています」なんて人が一体全体何割いるだろう?生命の危険がないかぎり、我々には強制する権利などはない。

僕はこれまでの会話の中で、この人はヘルパーといえども、自分の部屋に人を入れたくないと感じていると思った。掃除支援のため、と言ってもヘルパーを家に入れるのは無理だろうと思った。なにせ彼はまだ要支援2の人だったし、頑張れば買い物にも行けたからだ。

だからとりあえず訪問介護の導入はやめておき、デイサービスの利用につながるよう進めていった。それで何か所かデイサービスの体験に行ってもらった。そして「一番食事が好みだった」という理由で、同一法人の、僕の事業所のすぐ隣にあるデイサービスに週2回通うことになった。

これで、せめて週2回のうち1食はカロリーも栄養素も豊富なものを食べていることがわかる。デイには低栄養の危険性があることを伝え、毎月体重測定をしてくれるように頼み、体重増減をモニタリングしてもらうよう頼んだ。また病院のリハビリには通えなくなっていたので、機能訓練も行ってもらうことにした。できれば気の合う他の利用者が見つかることも願っていた(あまり期待していなかったけれど)。前田さんはこのデイが気に入ったようで、終始満足して利用していた。

これで介護サービスを利用することに慣れてもらい、訪問介護や福祉用具のベッドレンタルなどに繋げていければな、と僕は考えていた。でも、このデイサービス通いも長くは続かなかった。彼が入院したからだ。

つづく

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