介護職の殺人、についての独白、みたいなもの

先日、介護施設の職員が殺人容疑で逮捕されたニュースです。名前は伏せようかと思いましたが、すでにニュースに名前も出ているし、そのまま引用しました。

東京都中野区の老人ホームで今年8月、入居者の藤沢皖(かん)さん(83)が浴室で溺死する事件があり、警視庁捜査1課は14日、藤沢さんを浴槽に沈めて殺害したとして、同ホームの元介護士、皆川久容疑者(25)=杉並区方南2=を殺人容疑で逮捕した。容疑を認め「沈めて殺害するつもりだった。(藤沢さんが)何度も布団を汚すので、いいかげんにしろと思った」などと供述しているという。

毎日新聞 83歳殺害容疑で元介護士逮捕 浴槽に沈める
https://mainichi.jp/articles/20171114/k00/00e/040/183000c

これについては取り上げるべきかどうか迷っていました。単なるニュースの紹介というレベルで拡散しても何の意味もないと思ったからです。また別に個人的な理由もあります。

介護施設で介護職による虐待や、今回のような殺人がニュースとして取り上げられることが最近すごく増えています。不思議なのは入所施設では連日のように虐待事件がニュースになるのに、在宅介護の現場では身体的虐待はもとより殺人事件がまったくニュースにならないことです。

在宅介護の現場だって密室ですし、ホームヘルパーによる身体的虐待がないとは言い切れません。ケアマネージャーがお金をとる経済的虐待もあります。精神的虐待だっておこっているかもしれません。でも、在宅現場で介護職員が殺人をおかしたなんて聞いたことがありません。なぜでしょうか。それはやっぱり在宅介護の現場では介護職側にも要介護者側に逃げ場があるからだと思います。

介護職にとってどうしても相性が合わない要介護者なら他の人に担当を変わってもらうことができます。加えて訪問介護やデイサービス、ショートステイといった事業所は、介護施設と違い365日24時間まるごと要介護者の生活(人生といってもいいかもしれません)をかかえる責任はありません。責任がないというと在宅の事業所に失礼かもしれません。しかし、在宅介護サービスの場合は事業所も担当介護職も代替可能という前提があります。施設のように一度入居したらその場で生活が完結する(逃げられない)わけではありません。

確かに施設の介護職も業務の拘束時間は昼間は9時間で、さらに交代勤務です。まるごと1人の介護職が1人の要介護者を支えているわけではありません。ですが、施設には夜勤があります。はっきりいいますが、夜勤というのは特別な世界=異界です。施設によって違いますが、夜から朝まで1人で20人の要介護者をみることがあります。やや極端な言い方をすると、夜勤の時間帯は1人の介護者に20人の命が託されているわけです。夜勤帯は(特に1人体制のところは)夜勤者が絶対的な支配者です。この濃密さは在宅介護の現場にはありません。

僕個人の話をすると、ユニット型特養の介護職時代にかなり不安定な精神状態を経験しました。細かい説明は省きますが、そのときの状態はこんな感じでした。「こんな年寄り、生きていてもしょうがないじゃないか。死ねばいいのに」。

僕は介護福祉士と社会福祉士という国家資格を持っていますし、福祉について専門的な勉強をしてきた人間です。また、ずっと自分はよい介護従事者だと思って仕事をしてきました。それなのに、お年寄りに対して「生きていてもしょうがない。死ねばいいんだ」、と考えたことは恥ずべきことだと今でも思っています。そんな精神状態だったのは僕が29歳のときで、今から7年ほど前のことです。

そんな精神状態でしたが、僕は入居者に手を上げることも、冷たい言葉を浴びせることもなく、表面上は変わりなく介護業務をこなしていました。でも職場に行くのが嫌で、通勤中に泣くことが何度かありました。職場に入ると、何も考えずもくもくと目の前の仕事をこなしていました。鏡にうつった自分の目をみて、まるで死んだ魚のような目だな、と思ったことをいまも鮮明に覚えています。

僕は表面上は変わりなく仕事を続けていました。でも何かふとしたきっかけがあったら、お年寄りに手を上げていたかもしれない。精神的にはそこまで追い込まれていました。家にいてもちょっとしたことで悲しくなり涙が出てくるのです。かなりおかしくなっていました。でもまわりは僕のそんな状態に気づくことはなかった。

さすがに入居者に対して殺人までは犯さなかったと思います。でもそれは今だからそう思うのであって、確証なんてありません。何かの歯車がかちっとはまってしまえば、当時の僕が何をしたかなんてわからないのですから。ただ、僕は幸運なことにお年寄りに手をあげることはなかったし、殺すこともなかった。ただそれだけのことなのです。

僕がその精神状態から抜けたのは、東日本大震災がきっかけでした。ある日とつぜん何の前触れもなく、暴力的に命を奪われた人々がいました。実にあっさりと奔流に飲み込まれ、死という暗い穴に引きずり込まれた人々。そこには死に方の選択権などありません。尊厳死という考え方も存在しません。死というのは本来そんなものではないでしょうか。現代の日本が特殊なだけです。僕はあの地震と津波をかいまみたみたあと、しばらくしてから(直後は何も考えられなかった)とつぜん自分の傲慢さに気づきました。

僕は目の前の老人の命の価値を勝手に秤にかけていました。「こんなになって生きていてもしょうがないじゃないか」。「早く死ねばいいのに」。これは他人の命の価値をラベリングしているのと同じです。そのことに気づいた時、自分は他人の命の価値を勝手に決められるような人間なのか?それはとても傲慢なことではないのか?知らず知らずのうちに、僕は他人の「命の価値」を勝手にはかる審判者になっていたのです。僕はそんな人間だったのか。

そのことに気づいたあと、こう思いました。人はどうせ死にます。それは避けられない。そして僕の仕事は介護職です。それなら介護のことだけを考えていればいい。目の前にいるこの人が死ぬるその時まで、食事、排泄、入浴という基本的な介護をしっかりすることだけを考えればいいのだ。人の生き死になんて、それこそ神様か誰かが決めることだ。僕じゃない。
そう思えた時に、僕はとても身が軽くなりました。僕がそんな葛藤をずっと抱えていたなんて、まわりの誰も気づく人はいませんでしたが。

それと同時に、直接介護の現場は僕が含まれる場所ではないな、と思いました。ここは僕の場所ではない、と。もともと介護職をずっとやっていくつもりもなかったのですが、それがはっきりしました。僕は協調性はありますが、協調して物事をすすめていくことは苦手な人間です。つまりチームワークには向かない性格です。

その後に在宅のケアマネ職に異動するのですが、施設と在宅の介護現場の大きな違いに最初はとてもとまどいました。良くも悪くも在宅はとても自由なのです。なにより一番違うのは、お年寄りがちゃんと自分本来の顔をしている点です。どんなに重度の要介護者でも、自宅にいるときはその家の主人の顔をしているのです。ここが施設の入居者とは根本的に違う点だなと思いました。在宅介護の現場を数年経験したことで、施設介護の異質性がより鮮明に理解できるようになりました。

誤解してほしくないのですが、在宅介護が絶対的に正しく、施設介護は駄目だ、というわけではありません。施設生活のほうが楽しく過ごせる人もいます。これはケースバイケースです。ただ、施設介護の場合は密室性が大きな問題であり、これは今後どうにかしなければいけないものだと僕は言いたいのです。この閉じられた空間の問題は今後もっと大きな問題として取り上げられると思います。

これまで施設介護は「介護をもっと良いものにしよう」という熱意ある一部の人たちによって質の向上がはかられてきました。そういった内部から発生する力はこれからも必要で、そういう力が枯れることはないでしょう。熱意をもった若い人がこれからも出てくると思います。

しかし、僕は内部からの力のベクトルだけではもう限界にきていると思います。施設介護の質を向上させるには外部からの力も必要になってくると感じているのです。外部からの、なんて嫌な言い方ですが、現在の介護施設にはそういったものが必要とされていると僕は考えています。どんな介護施設で過ごすかによって、人生の最晩年の質が決まります。良い介護をしている施設はいいのですが、そうでない施設もあります(個人的にはこちらのほうが多いと思います)。施設は密室性が高いので、外部の人間にはケアの手順がきちんととられているか把握するのは困難です。

在宅介護の場合は必ずサービス事業所が一堂に集まり、定期的にサービス担当者会議を開催しなければなりません。ケアに問題点がある場合は参加者間で意見が交換されます。皆がふだん腹にかかえている思いを吐露する場にもなります。

しかし、施設では必ずしも関係者が一堂に集まるという形でサービス担当者会議を開催する必要がありません。文書の照会という形で残せばそれでOKです。そのためろくに職員の意見も聞かず、文書という形だけを残してサービス担当者会議を開かないところも多くあります。会議形式にこだわるわけではありませんが、介護職の意見をまったく聞かずにケアプランの更新をする施設が多いと僕は思います。

僕がいた特養では、僕が担当になっていた入居者の状態が急激に悪化したので(膀胱がんの末期で尿道から常に出血があった)、今後の介護の方向性を確認する必要があると思いました。そのため家族を呼んでサービス担当者会議をしてほしいと上司に言いました。しかし、担当者会議が開かれることはなく、数週間後にその入居者は入院し、そのまま入院先で亡くなりました。

介護職はいろいろな想いを心にかかえながらお年寄りに向き合って仕事をしています。「こう工夫したらもっといい介護ができるんじゃないか」とか、「あそこに連れて行ってあげたら喜ぶだろうな」とポジティブな想いを持っています。また逆にネガティブな想いも抱えています。そういった想いを吐き出す場が必要だと思うし、その気持ちを業務の改善にいかすためには、公式な会議、つまりサービス担当者会議という場が必要なのです。

僕の場合は会議を開いてくださいと伝えても無視されました。そんな時間はとれない、と言われました。精神的に追い込まれていたときには施設長に個人的に悩みの相談にもいきました。しかし、ほとんど真剣に取り合ってもらえませんでした。これ以上は聞き苦しい愚痴になるのでやめておきますが、施設の内部にいる多くの人間は弱い立場にあります。強い性格と揺るぎない信念で施設を改革していく人たちはいます。しかし、そういう人たちは全体からみればマイノリティな存在です。みなが強いわけではありません。

施設介護の全体的な質の底上げをするためには、外部の力、例えば入居者の家族が施設介護の質をチェックしなければいけません。でもそれは家族が単体で行うには難しい。介護の知識もいりますし、何より身内を預けて世話をしてもらっているという遠慮があります。施設に意見をいうのはかなり心理的な抵抗感があるでしょう。ですから、今後は特別養護老人ホームにしろ、有料老人ホームにしろ、施設側と家族の間を仲介し、ケアの質をチェックする専門家が必要になるのではないか、というのが僕の持論です。

介護施設にはケアマネや相談員がいます。本来なら彼らが家族とのパイプ役を果たします。しかし、彼らもけっきょくは施設に雇用されている人たちです。失礼を承知でいいますが、彼らは完全に中立な立場では動いてくれません。僕も施設で相談員をしていたのでそこらへんの微妙な立ち位置はよくわかります。入居者や家族の利益を第一に考えて行動すると、有料老人ホームなどの営利法人ならクビになるか、クビにならないまでも職場内で浮いてしまいます。だから彼らが100%こちらの味方になってくれるとは考えないほうがいいと思います。

施設職員による虐待や、今日とりあげたような殺人が増加しています。国は介護職が足りないと言っていますが、絶対数でみれば増えています。供給量が追いついていないだけです。国はあの手この手で介護職を増やそうとやっきになっています。昔から介護は他業界からの転職者が多い特徴を持っています。さらに今後、絶対数が多くなれば介護職の適正を持たない人も増えるのは自明です。介護施設を運営している法人がしっかり介護職員を教育できればよいのですが、教育できているところは多くありません。そんな余裕がないのです。介護経験のない新人を入職させて数週間後に夜勤をさせる、なんてところはざらにあります。

とても残念なことですが、「介護施設に入居させれば安心」という時代ではもうないというしかありません。これが僕の意見です。ご家族にはせめて施設から渡されるケアプランをきちんと読み、なんでもいいので意見を言う。これはどういうことですか?と確認する。それだけでケアマネは緊張します。そして担当者会議がきちんと開催されているかを確認する。介護経過記録を定期的に見せてもらう。そういった態度を家族がとることによって(内容がわからなくてもポーズでかまいません)、施設側は下手なことはできないな、と感じます。そうして圧力をかけていく。

要は「おまかせします」という態度をとらないことです。家族の老病死をみることはつらいものです。施設に預ければ、それを身近にみないですみます。それはとても楽なものです。その気持は僕にもわかります。でも、預けられている本人のためには家族が外部圧力となって(もちろんいい意味の力として)、出来る範囲で介入しながら施設ケアをともに育てていく。そうしなければ施設介護の未来は暗澹たるものになるのではないか。

いっときであれ老人のことを「死ねばいいのに」と考えてしまった僕には、仕事として直接介護をする資格はもうありません。だから僕は介護施設に関する専門相談所を作ろうと思いました。お金を出してまで施設との仲介役を頼むご家族がいるかどうかわかりません。もしかしたら僕個人の自己満足で終わるかもしれません。でも今の施設介護の閉塞状態を変えるにはどうすればいいのか?

老人を虐待してやろう、殺してやろうと思って介護の仕事に就く人はいません。それでも殺人までおかしてしまった。どんな理由があろうと、要介護老人の殺人は許される行為ではありません。殺人を犯した人はその責任をとうぜんとるべきです。しかし、今の介護現場ではこれからもひどい虐待や、殺人がおこる可能性があります。重度の介護が必要な、抵抗もできない老人を殺してしまうような深い闇が現場にあるのなら、少しでもその闇を払いたい。僕に何ができるのかまだわかりません。でも特養の介護職時代に受けた傷の疼きは僕の中にまだしっかり残っています。そういった意味では、僕が本当に援助したいのはお年寄りでもその家族でもなく、現場の介護職だということになります。

こんなに長い文章になるとは思わなかったし、ずいぶんシリアスな話になってしまいました。だからこのニュースをとりあげることを躊躇したわけですが。やむにやまれぬ独白、と考えてください。明日からは普通に戻ります。

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