特養から外泊しても訪問介護が利用できるようになるかもしれない

介護保険施設の入居者は在宅の介護保険サービスは利用できない。利用するなら保険外の利用となるが、利用料金は高額になる。逆に在宅サービスを利用している人は施設サービスは利用できない。介護施設に短期間入所するショートステイは別である。あれは在宅介護サービスに分類されるからだ。

このように、施設と在宅の保険給付を同時に受けることはできない。しかし、それが少し変わるかもしれない。

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一時的に自宅へ戻って家族と過ごしたい――。そうしたケースが対象で、特養の職員が現地で支援を行ったり訪問介護をアレンジしたりした場合に、日々の介護報酬に代えて一定の単位を取れるようにする。同じ趣旨の仕組みとして既に「外泊時費用」があるが、入所者の自宅でサービスを提供することまでは想定していない。一定の介入が欠かせない状態の人であっても、ニーズがあれば「たまに在宅」を選択肢に加えられるようにする狙いがある。次の改定に向けた協議を進めている審議会で15日に提案し、委員から大筋で了承を得た。

特養、たまに在宅 支援を拡充へ 外部サービス活用も可能に 厚労省方針―社保審・介護給付費分科会
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特養入所中でも在宅介護サービスの利用ができる?

施設入居中でも外泊時には介護保険をつかって介護サービスを利用することができるようになる。たまには良いことを考えるじゃないか厚労省、という感じである(ウラで何を考えているのかまでは今回考えない)。あとはこの制度が使いやすいかどうかだが、まだ細かいところは検討段階らしく、どうなるか見ていきたいと個人的に思っている。

僕は在宅介護の場合は家族の関わりをできるだけ減らしたほうがいいと思うが、施設介護では家族の関わりをもっと多くすべきだと思っている。施設介護において、その最たるものが家族の手による外出・外泊だろう。なにせその間は施設職員が介護サービスにかかわらない。もちろん家族によっていろいろ事情がある。だからすべての入居者には無理でも、施設としてはできるだけ家族に外出・外泊を促していくべきだと考えている。なぜかというと、施設内で生活が完結すると、ケアプランの目標設定ができなくなっていくからだ。

日常生活そのものに目標なんてない

ケアプランは生活課題を解決するためにある。そして生活課題が解決した状態を「目標」としている。でも例えばケアプランの目標に「トイレに行けるようになる」とか、「安全に入浴できるようになる」とか書かれていたとする。よくある書き方だが、これは生活「課題」に焦点をあてたケアプランではないと思う。生活「機能」に焦点をあてたものだ。機能だから、機能訓練(リハビリ)で向上させることができる。でも逆に機能訓練にそぐわない場合は向上させられない。例えば認知症で理解力が低下している人や、寝たきりで機能訓練ができない人、訓練する意思がない人などだ。

そもそも僕は日常生活そのものには目的も目標もないと考えている。生活課題を言葉にして、また目標をすえるということは「意識的に生活しろ」ということだ。僕たちはどうだろう。日常的に毎日繰り返される「普通の生活」そのものを意識しているだろうか?意識的に生活しているだろうか。生活とはもっと無意識的なものの繰り返しであるはずだ。それが要介護状態になったからといって、「意識的な生活」をしないといけないとでもいうのか。そうして毎日ハリビリに励まなければいけないのか。それは特別な人たちには特別な条件が課されて当然という思想であり、こういうのは昨今の福祉の考え方にはそぐわない。

いやいや、税金を使っているのだし、介護保険法第4条にも「国民は、自ら要介護状態となることを予防するため、加齢に伴って生ずる心身の変化を自覚して常に健康の保持増進に努めるとともに、要介護状態となった場合においても、進んでリハビリテーションその他の適切な保健医療サービス及び福祉サービスを利用することにより、その有する能力の維持向上に努めるものとする。」と書かれている。

これはすべて社会保障費の収支を基準とした考え方である。給付(出口から水)量を増やしたくない。そのためにできるだけ病気、要介護状態にならないようしなさい、ということである。なぜなら介護保険法では能力の維持・向上の先の「自立」について何も定義していないからだ。自立が目的といっているにも関わらず。

まあいい。そういうなら、国が国民すべてに、できるだけ病気にならないよう、要介護にならないよう、あるいはまた自己実現への道にいたるよう、生活上の目標を設定させ、そのために必要な物事を実施させ、一定期間ごとに評価する義務を課すべきではないだろうか。そのプランはもちろん書類にして半年ごとに更新させる。そしてときどき地域で会議を開いて、誰かのプランを持ってきて、「なんだこれは。ちゃんとできてないじゃないか」とみめしめにする。そういうできていない人には給与を減らすなどのペナルティを与える。こういう管理社会にすれば、社会保障費はかなりコントロールできると思う。

生活上の「課題」ではなく、生活上の「予定」にすべきじゃないか

生活上の「課題」を解決すべし、というのは非常に意識的で、かつ優等生的発想である。でも多くに人にとって日常生活とはそういうものではないだろう。何かしらの生活上の「予定」があり、そのために準備する。これが僕たちが生きている生活ではないだろうか?別に目標という言葉でもいいのだけれど、甲子園を目指す球児でもなし、多くの社会人は予定をこなすためにいろいろ準備しているものである。仕事上の予定であったりすると人によってさまざまで、とても一般化できないが、生活上の予定であれば一般化しやすいと思う。

例えば家族の誕生日のお祝いの会を予定しているとか、お盆や正月に帰省する予定があるとか、家族の休みを合わせてみんなで旅行にいく予定がある、などだ。こういうものはどの家庭でも行う機会がある「予定」である。

課題の解決という視点では、つねに問題点を探さなければならない。とうぜん、問題点を見つける目で要介護者を観ることになるし、書き方もそうなる。最近ではケアプランの書き方はそうあってはいけない、もっと本人を中心にしたポジティブな書き方でなければいけない、と指導される。でも書き方だけポジティブなものにすると、自分がひどい偽善者になったような気になる。なぜなら、こちらがどんなことをしても、相手は弱って、朽ちて、最後には死んでいってしまうからだ。

日常よりも非日常の外出時に介護保険の適用を希望

僕はケアプランの「目標」は細分化する必要はないと思う。細分化してもあんな細かい文字は一定以上の年齢を超えた人には読みにくい。項目別にいろんなことが書いてあっても、それが連携した関係をもっていないと理解しにくい。つまり誰も読まない。

「総合的な援助の方針」も家族と共有できるようなもっと具体的なものでよいと思う。ケアマネ1人が頭をひねっても、けっきょく同じような文言にしかならない。最初に作るケアプランは利用者の情報が少ないから、まあなんだっていいのだけれど、2回目以降は具体的なものにすべきだ。施設にはすぐ近くに面と向かって話しあえる仲間がいるのだから。

僕は総合的な援助の方針はたとえば家族と一緒に参加する冠婚葬祭の何かにすればいいのじゃないかと考えている。それに参加するためにベースとなる日常生活をしっかり支えます。これでいいじゃないか。

葬式はあらかじめ予定できない場合が多いからしょうがないとしても、冠婚葬祭のうちの「冠婚」、祝い事については予定がよめる。祝い事の場なら要介護のおじいちゃん、おばあちゃんが出席してもよいだろう。車椅子のおばあちゃんも孫の結婚式を祝うために来てくれた、これでよい。冠婚葬祭のときのお年寄りの役割というのは、ただその場にいることである。何かを「する」必要はない。その場に「いる」だけで十分に役割を果たす。

冠婚葬祭というのは日常のケではなく、非日常のハレのことである。在宅介護サービスで考えればハレのときの介護保険利用は想定されていない。ベースとなる日常生活を支えることが最大公約数であるから、特別な事情で利用されては保険給付できる上限が設定できなくなるからである。

でも僕たちの生活というのはなにも日常生活(ケ)だけで成り立っているわけではない。普段のとりとめのないケの繰り返しの中にたまにハレの日が入り込んでくる。それが僕たちの「普通の生活」だろう。その「普通の生活」を支えるという理念を大切にするなら、一年に1日でも2日でもいい(もちろん3日や4日くらいあってもいい)。そんなハレの日にも利用できる介護保険制度があってもよいではないか、と思う。

制度に人間性を求めることの是非は僕にはわからない。しかし、制度は制度によって利用されるわけではない。制度は利用する人間のためのものである。経済的余裕があれば人間ための制度になる余地ができることは認める。でも現在は介護保険にしても医療保険にしても制度のための制度になっている。

また長期目標も食事や排泄や入浴ごとにそれぞれ細分化してなくもいい。例えば目標を「最低月一回は外食にいきたい」とすれば、そこには食事、排泄、入浴、認知症の問題行動の改善など、すべての要素が含まれている。あとはその人固有の介護方法を少し詳しく記述すればよいだけだ。もちろん文字にはすべて表現できない。サービス担当者会議での話し合いのすえの参加者の了解が大事になってくる。

どんな入居者を想定しているのだろうか

今回の厚労省の在宅外泊時に介護保険サービスを利用できるように、という背景はどのような要介護者を想定しているのだろう?たしかに入居者は家に(一時的にでも)帰りたいと訴えているし、施設介護職もたまには家族のいる家で過ごさせてあげたいとも考えている。

特養に入っているようだから、やはり要介護3以上の車椅子移動が必要で、認知症もそれなりに持っている重度介護者が多い。しかし記事によると、検討会ではいまのところ外泊初日には訪問介護などは利用できないとされている。

しかし、外出・外泊時にとくに介護を必要としないお年寄りならこんなサービスを利用するまでもない。家族の手だけで十分である。というか、そんな軽度のお年寄りなら特養に入っていないだろうし、環境さえ整えれば在宅生活が可能である。

特養には軽度の入居者もいるが、そんな人は別に同居家族がいれば外出・外泊は問題ない。まさか独居の人を外泊させる気だろうか?どちらにしても、外泊初日から訪問介護などが利用できるようにしないと意味がないのではないか、と思う。何日も連続して外泊させて介護する余裕のある家族は多くないだろう。1週間に一度ならかなり、月に一度でも頻度として多い方である。

職員が施設外で介助できる仕組み作りが大事

まあこの外泊時に介護保険が利用できる、というのは歓迎したい。家族は何しろ不安なのである。自分たちに対応できないことに面したときが。そういった時に、何かあればすぐにプロが来てくれる、という安心感があれば外泊の機会がもっとうまれるのではないだろうか?僕としては外泊だけでなく、外出時にも介護サービス料がとれる仕組みにしてもいいと思う。

厚労省でも施設独自のものでもいいが、お墨付きをもった「仕組み」を作っておくことが大事なのだ。熱意のある職員が施設に内緒で自分の休日におじいちゃんを銭湯や回転寿司に連れて行く。別に否定しないけれど(僕もそうしていたし)、それでは長続きはしない。組織として仕組みを作っていれば、その報酬は安くても協力する職員はたくさんいると思う。

目の前の1人の人間の一挙手一投足にこれだけ細やかに注意を向ける仕事はそこまで多くない。肉体も精神もかなり疲労する仕事である。保険外で訪問介護員を利用するとだいたい時給2000円くらいだが、これでも安いと思う。経済的負担感は世帯ごとに相対的なものだけれど、発生することには変わりない。

余計にお金がかかることについて、介護施設側がどこまで家族に外出や外泊をすすめられるだろか?という問題は残る。でも僕は前から言っているけれど、介護施設が質の良いケアをこれからも提供していくため、また業界全体のケアの質を高めていくためには、家族との協働が絶対必要になるのだ。この家族なら関係も良いし、介助できる介護力もあるなと感じたときには、それとなく短時間の外出からすすめてはどうだろうか?

施設に入っているお年寄りが外食に行くと、本当に生き生きとした顔をするんだから。施設でふだん見せる食欲がウソみたいに食べるし。施設内で生活が関係していると、こんな顔をみることはぜったいにない。

もちろん入居者が外出・外泊するためには、オムツだとどうしようもない。基本を抑えた排泄介助、人の生理的な動きを熟知した移乗介助、そして認知症の理解がしっかりできていて、まともな介護をしている施設でないと特養入居の重度介護者の外泊なんて難しい。まずそこらへんから話し合うべきじゃないでしょうか?厚労省さん。

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