「科学的介護」が現場には役に立たないと思うエビデンスとか

選挙が終わったので、中断されていた社会保障審議会・介護給付費分科会が27日に再開された。この分科会は次回の介護報酬をどうするかについて話し合う場である。記事によると介護の現場側の委員には怒っていた人もちらほらいたとのことだった。何に怒っていたのか?とうぜん経団連の介護報酬を引き下げんかい、という意見に対してである。

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会議では介護事業所の利益率は平均3.3%で、中小企業の平均2.6%よりも高い。よって報酬は引き下げるべきだ、という意見がでた。利益率でなく平均年収で見てみると、介護報酬は反対にもっと引き上げるべきだ、となると思うけれど。相手は自分たちにとって都合の良い数字しか出さないのである。

そういった敵の言葉を聞いてみよう。

健康保険組合連合会の本多伸行理事も、「利益率は決して悪くない。今後の財政は非常に厳しく、報酬を引き上げる環境にはない」と持論を展開。協会けんぽの安藤伸樹理事長は、「高齢化が進む一方で『支え手』は減っていく。制度の持続性の確保という視点は重要。保険料もすでに高い水準にあり、適正化できる部分は確実に実施すべき」と促した。

これに対し、味方の意見。

全国老人保健施設協会の東憲太郎会長は、「介護報酬をマイナスにするために持ってきたとしか思えない数字を使うのはやめて欲しい」と批判した。認知症の人と家族の会の田部井康夫理事は、「ちょっと利益率が上がったらすぐ報酬が下がるような業界で誰が働きたいと思うのか」と問題を提起。日本慢性期医療協会の池端幸彦副会長は、「特に中小の事業所は限界にきている。報酬をさらに下げるという議論をすること自体がナンセンスだ。強い憤りを感じる」と語気を強めた。

介護サービスの利益率をめぐり対立 「報酬下げるべき」「サービスが崩壊する」―社保審・介護給付費分科会
http://www.care-mane.com/member/news/8787?btn_id=related&CID=&TCD=0&CP=1

まったく意見が噛み合っていない。これはとうぜんで、初めから噛み合うわけがないのである。なぜなら、敵が議論しているのはお金に関してのことであり、味方が議論しているのは人(利用者、介護従事者)に関してのことだからだ。議論する点がまったく違うのである。同じ頭足類でもイカとタコは違うように、一方はイカ、もう一方はタコについて話しているのである。同じ種というだけで形や味が違うものを同じまな板の上にのせるから話がおかしくなる。

介護保険制度の設計が甘かったのでは

持続可能性について大きな焦点になっているようだが、ちょっと違和感を覚えないだろうか?介護保険制度がスタートしたのは2000年である。今年は2017年だから、運用されてからたった18年しかたっていない。この短い期間で持続可能性が危ぶまれているのだ。「スタート時の設計にそもそも問題があったんでしょう?」としかいいようがない。

制度改定はいつも後手に回っている。例えば国は要支援レベルの軽度者から早めに介護予防すれば、全体の要介護度が低減するんじゃないかと見積もった。しかし、けっきょく要支援のサービス利用者が増えたわりには介護給付費が減らない。どうも介護予防の効果がないようだ。給付費があがっただけである。となると、要支援で利用者の多い訪問介護と通所介護を介護保険からはずし、総合事業なんてものを作ってしまった。

本当は訪問看護も総合事業に入れたかったのだけれど、反対にあって介護保険からはずせなかったらしい。いっそ要支援者の受けるサービスをすべて介護保険からはずせばすっきりしたのである。日本の介護保険を参考にした韓国は軽度者の給付などはばっさり切り捨てている。まあ日本には日本の事情はあるにしても、制度を設計する人間が介護保険をどんどんわかりにくく、いびつなものにしている。さらにはまた新しくこんなものがでてきた。

政府が主導する科学的介護

現場にはほとんど「科学的介護」なんて言葉は浸透していないと思うけれど、政府が今後の方向性として出している、らしい。科学的介護というと竹内孝仁教授の理論を想起させる。政府のこれは竹内教授の理論のことを指しているわけではないが、まあ無関係でもない。

「科学的介護」の推進は政府が打ち出した今後の舵取りの方向性。「どのような状態にどのような支援をすれば自立につながるか明らかにする。効果のある自立支援の取り組みが報酬で評価される仕組みを作る」。安倍晋三首相は今年4月、成長戦略を話し合う「未来投資会議」でそう言明した。

自立支援、どう評価? 厚労省、「科学的介護」の展開へ検討を本格化
http://www.care-mane.com/member/news/8739?btn_id=related&CID=&TCD=0&CP=1

科学的介護とは、つまりどのような介護をすれば自立=要介護度の悪化防止につながるかの根拠を見つけることである。在宅であれば介護保険サービスの利用をできるだけ少なくして欲しい。施設であれば要介護度の重度化を防ぎたい。そうすれば介護給付費をおさえることができる。非常にシンプルな論理なのだ。

国としては介護給付費をおさえることができれば、科学だろうが、非科学だろうが、魔法だろうが、おばあちゃんの知恵袋であろうが、なんでもいいのである。それは下の記事内の言葉にも端的にあらわれている。けっきょく、人のことを話してるのではなく、金について話しているのである。

「介護の労働はかなり厳しい。実際に従事されている方の負担をいかに減らしていくか。より効率的にサービスを提供する観点から、『科学的介護』を展開しないといけない」。
鈴木医務技監はそう語った。「介護の費用は10兆円を超えた。今後も保険料をどんどん上げていくわけにもいかない。財政的にみても効率的な介護が非常に大事」との認識も示した。

鈴木医務技監「科学的介護は重要。保険料をどんどん上げるわけにもいかない」
http://www.care-mane.com/member/news/8781?btn_id=ranking-view&CID=&TCD=0&CP=1

政府の指標は一貫して経済効率

政府は科学的介護のための根拠を集めたいらしい。つまりどのような情報を収集すればエビデンスを確立できるのかをまず構築したいとのことである。厚労省は新たなデータベースの本格運用を2020年度までに始める計画をちゃっかり進めている。

第2回科学的裏付けに基づく介護に係る検討会資料
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000182547.html

上記の資料を読んでみた。運用までにはまだ遠く、どのようにデータを集めるかという検討段階である。今からこんなのをはじめて2020年度までに間に合うのだろうか、という感じだ。しかし、はじめたからには何らかの結果を出すだろう。それが役人の仕事の仕方である。しかし、情報収集の手間のわりにはリターンが小さいような気がする。現場経験のある人間の勘でしかないのだが、こんなものに資産をさくのは効率が悪いのではないだろうか。

仮に科学的裏付けのできる介護の根拠を見い出せとして(これも眉唾ものだけれど)、それが本当に現場で実用されるかは、はなはだ疑わしい。すでに自立支援に有効な介護の根拠は提出されている。オムツはずし(とその方法論)、機械浴でなく個浴入浴(とその方法論)などだ。それが現場にいまひとつ浸透していかないのは、介護職が正しい方法論を知らないから、という理由だけではないと思う。

また、安倍首相の言葉が本当になれば介護度が改善したり、ADLが改善すればインセンティブがでる。しかし、この機能改善すればインセンティブという考え方は現場にそぐわないと思う。

介護度によって「自立」支援の概念が変わる

いくら科学的で正しい介護をしても、機能改善しない人たちは確実に存在する。要介護4、5の人々である。こういった人たちには科学的介護の自立概念は意味を持たないのではないだろうか?

要介護の重度な要介護老人でなくとも、老人というだけで機能は簡単に改善しない。というか、要介護度が現状維持できていれば、そうとう頑張っているといえるのである。老化にあらがい、病気でダウンしていない証拠である。せめて現状維持の人にもインセンティブをつけるならいいと思う。でも現状を維持している人は多いから、そんなことをしたら予算がいくらあっても足りない。

100歩譲って、要支援から要介護2程度の人なら、科学的介護で介護度が改善されるかもしれない(しかし本人や家族は介護度は重い方がよいと考えているのだけれど)。軽度者には改善が見込まれるからインセンティブを出るけれど、重度者には出ないということになると、要介護度によって自立概念が異なってくる。自立を機能の改善と考えると、要介護5の人には自立なんかなくなってしまう。介護職は介護している意味をどこに見出したら良いのかわからなくなる。

国は介護をマクドナルド化したい

よい介護にするために科学的介護の根拠を集める必要があるのなら、誰も文句は言わない。しかし、科学的に証明された結果がのちのち覆されることが往々にある。我々に身近な例で言うと、傷の処置方法がある。昔は何を置いても消毒、そしてガーゼで患部を覆ったものだが、現在は消毒をするとかえって傷の治りが悪くなるといわれていて、さらにガーゼさえ使わない「湿潤療法」というものがでてきた。これなんかは創傷治療のパラダイム・シフトといっていいだろう。薬局にも普通に湿潤療法のための傷パッドが売られている。

介護はデータベースを作るには臨床データの取得方法がまったく確立していない。確立するのかもわからない。それにも関わらず、科学的介護を押し通すためかのような進め方をしているのは気にかかる。老人の人生を科学の実験場にするにはあまりにリスクが高いのではないだろうか。

また科学的のロジックの限界もある。Aという状態にBという働きかけをしたら、Cという結果がでる。(A、B)という条件がCという結果をもたらす。結果は条件が同じなら毎回Cでないといけない。これがCにならず、その都度DとかEになるとまずいのである。

もし科学的に介護できるなら、介護職員によるブレがなくなるはずだから、ケアが均質化する。介護職は苦労していろいろなアプローチを試さなくてもよくなる。そうすれば省力化できて楽になる。マニュアル通りにケアすればいいのだから、介護職を促成栽培することもできる。介護の合理化、効率化、低価格化がすすむ。また利用者側もどこで受けても同じケアを受けられるなら、施設選びに失敗することもない。マクドナルドと同じである。メリットだらけである。

闇の中を手探りに進むしかない

でも要介護老人とは、介護職とはそんなに単純なものだろうか、と僕は思う。科学的なのはいいけれど、そんな簡単に話しが運ぶわけがない。認知症の問題行動には必ず理由がある、と言い切る人がいる。確かに理由はあるのかもしれないけれど、それを特定できるかどうかというのはまた別の話である。なんでもかんでも光のもとにさらしだせるわけではない。闇の中を手探りに進むしかないことも多い。それはあまり合理的でもないし、効率的ともいえない。

でも合理的、効率的ではない方法のほうが目の前の1人の老人に確実に近づいていっている、という確実な感触を持てる。介護サービスとは人が人に対して行うものである。しかも、普段は人に見せない非常に深いところまで見てしまうものだ。身体的にも精神的にも。老人にとっては人生の最晩年をどのように過ごすか、という問題である。そんなもの対して、単なる科学=マニュアルで対応できるはずがない。人間対人間のもっと強いつながりがそこには生まれるし、また必要ともされるはずだ。

経団連や財務省の人間は制度の持続性こそが大事だという。しかし、介護保険料はどうせ何をしても、しなくても上がっていくのだ。それならいっそのこと高くしてもいいじゃないか。保険料負担に見合うケアサービスを受けられるのなら、人々は納得するはずだ。そのために介護従事者はがんばるだろう。よい介護をすること。それが我々の仕事だからだ。財源を確保し、国民に納得してもらうように働きかけるのが経団連や財務省の仕事ではないのか。人のことはこちらで頑張るから、お金に関する議論はそちらでやってほしい。

超高齢社会では、介護をお金を払って買うサービスにしなければならない。それはしかたない。介護を他人に代行してもらわなければ自分の生活がままならないからだ。でも、本当の介護には値段はつけられない。本当の介護とは、金とサービスの単なる交換関係では成り立たない。もちろん介護を仕事として行っているので金銭関係がベースにはある。でも僕は介護職として、あるいはケアマネとして老人やその家族と心のつながりを作ってきたと思っている。介護はやっぱり人だと思う。高いお金を出しからといって良い介護関係は買えない。もちろん安くてよいというものでもないんだけれど。

コメント

  • 科学アレルギーなの?

    書かれている通り、そんなに簡単に定式化できるわけじゃないけど、少なくとも相関はある。

    それならば、機械学習で各要素ごとの寄与率を推測することはできる。
    これを繰り返すことで徐々にサービスは改善される。

    どんな理論もトライアンドエラーの繰り返しだから科学は魔法ではないけど、少なくとも科学的な分析を入れない限り定量的な判断はできないし、無駄に金を使い続ける。



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