認知症の理解には介護小説?

介護を題材とした小説が増えてきた。古くは有吉佐和子の『恍惚の人』があるし、芥川賞をとったモブ・ノリオの『介護入門』、あと僕は読んだことはないけれど木村航氏の『覆面介護師ゴージャス☆ニュードウ』なんてぶっとんだタイトルの本もでている。

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介護小説というジャンル

介護は大きな社会問題だし、現代の一つの象徴にもなっている。それと同時に「ケア」という思想は人にとって時代と空間を超えた普遍的なテーマでもある。身内に介護が必要な人は多くなっているから、直接的に介護に関わっていなくても、関心をいだかずにはいられない。それは介護本の潜在的な読者が生まれているということでもある。

介護の小説が出てきているのは当然の流れだと思う。しかしそれにしても、出版されている小説のジャンルから考えると介護小説はまだマイノリティである。もっとたくさんの介護小説が出てきてもいいと思うのだけれど、まだまだこれからなのだろう。

最近では現役の介護福祉士が認知症介護をテーマに短編小説を発表している。短編小説というよりショート・ショートくらいの分量だが、ツボをついた話なので読む価値があると思う。著者は阿部敦子氏という人で10年以上の現場経験がある。

ぜひ一読を。とくに家族さんに読んで欲しい。 https://ninchisho-online.com/archives/23984/

知識も大事だけれど、共感はもっと大事

僕も少し読んでみたが、すべて認知症の老人の視点で書かれていて、認知症の人の目からみた世界を理解するにはとても良い教材になると思う。現場の経験者らしいエピソードばかりで、介護経験者なら「こういうことってあるある」という具合に共感するところが多い。

認知症介護で大事なのは相手との共感である。いくら認知症に関する医学的な知識があったとしても、そこに共感がなければよい介護はできない。認知症の医学的理解はときに味も素っ気もないものになりがちだ。なぜならすべて脳細胞に還元されるからである。そこには(もちろん)遊び心も何もない。

これだけ認知症になっている人が多いのに、医学では原因がまだ特定できていない。もちろん薬で治療なんてできるはずもない。認知症の薬は現在4種類あるが、どれも物忘れそのものを治療するものではない。

世の中の人は「認知症の進行を遅らせる」なんてふれこみを信じているが、それはウソである。認知症専門医のセミナーで聞いた話しだが、認知症の薬の効能は意欲をだすか、意欲をなくすかの両方向性のみだということだ。けっして物忘れそのものを改善させるわけではないのである。

たとえば認知症の薬で有名なアリセプトは意欲を出す方向に効く薬だ。意欲をなくして言動に元気がない人がこの薬を飲むと、元気になり一見すると認知症が改善されたように見える。でもこの薬の問題は、意欲が出すぎてイライラがつのって暴言をはいたりするなど、攻撃的になることである。こういう人はけっこう多い。

もう一つメマリーという薬があるが、これはアリセプトと反対で意欲をなくす方向に効く薬である。徘徊、暴力、夜に寝ないなど、活動的な認知症の周辺症状がある人に出される。これは効きすぎると、傾眠状態になり、魂が抜けたようになる。このように分かりやすい症状を呈するので、思い当たる人も多いはずだ。

メマリーだけは他の認知症薬と併用できるので、アリセプトによって興奮している人をメマリーを使って興奮をおさえてバランスをとる、というアホな使い方をする場合がある。そんなことをするくらいならアリセプトもメマリーも中止すればいいのだが、医者には「薬を止める」という発想はあまりないらしい。こうして医者が認知症をもっとややこしくするのである。

という感じでかなり乱暴な説明になってしまったけれど、僕は医者ではなくてあくまで介護経験者である。介護現場の目線でしか説明できないのでご理解いただきたい。

物語を通して介護を理解する

僕は老人介護を理解するには物語が大事だと思ってきた。でも世の中にでている介護小説にはなんだかやぼったい印象をもっていた。介護の直接的な描写が僕にそう感じさせたのだ。介護小説なんだから介護について書いてあるのは当たり前である。

でも介護を職業にしてきた僕みたいな人間は、介護現場の直接的な描写なんてとくに読みたいと思わない。介護の現場をそのまま克明に描写されると、なんだかよくできた記録を読んでいるような気になってしまう。そんなもの仕事で見飽きているから面白くもなんともない。

かといって小説的に、つまりドラマチックな展開が優先されると、とたんに嘘くささを感じてしまう。医者が医療ドラマを観てしらけるのに似ている。現実ならそんな展開はありえないよ、という感じである。ここらへんのバランスが難しい。

実は僕もむかし介護小説を書いたことがある。上の問題を解決する方法を見つけたからだ。要するに介護の直接的な描写がなくても成立する介護小説があればいいのである。自分でそれを書こうと思ったのだ。その試みがうまくいったかどうかは僕自身にはよくわからないのだけれど。

せっかくなので以下に僕が書いた介護小説の冒頭だけを載せておきます。



僕の仕事は仲介業だ。何らかの問題を抱えたAがいる。その問題を解決できるBがいる。そのAとBをつなぎ合わせるのにCがいる。それがつまり僕だ。
この仕事は知名度が低い。世間にはあまり知られていない。それに外から見ているだけの人間には、僕たちの仕事の内容はすごく分かりにくい。実際に仕事をしている僕たちにだって、自分たちの仕事の中心が何なのか、よく分からなくなるときがある。専門性の欠如。脆弱な職業的アイデンティティ。ある仲間は自分のことを「何でも屋(Jack of all trades)」だと自嘲して言う。でも一つ確かなことがある。僕たちの仕事は世間から必要とされている。それだけだ。

この道の先達者のP.フェリックスは仕事における七つの原則を次のように唱えている。

一、依頼者を個別化して考えよ。私たちにとっては依頼の動機が似たようなものであっても、彼にとっては特別なものである。同じアプローチをしようとすれば私たちが手痛い目をみる。

二、依頼者の価値観が私たちの価値観と違うからといって否定するな。たとえ君がコーヒーはブラックに限ると考える人間であっても、依頼者がコーヒーにシュガーとミルクを入れたいと言えば、否定すべきではない。相互理解の妨げになる。

三、理解すべきは依頼者の「感情」であると心得よ。依頼者との会話で論理はあてにできない。八〇%は感情をつかむことに使い、論理部分の理解は残りの二〇%で行なえばよい。

四、依頼者に同情するな。同情は判断力を鈍らせ、間違った行動を起こさせる。間違っても依頼者の立場に立つな。身を滅ぼす地獄の火車に巻き込まれることになる。

五、依頼者がどんな人間であれ、それを審判するのは私達の仕事ではない。私達が行なうのは依頼者の人間性の善悪の審判ではない。

六、依頼者の意向を尊重せよ。私達はプロとして助言はするが、決定権は依頼者に持たせる。けっして誘導してはいけない。君がこの間違いを犯せば、それはのちのちブーメランのように君のもとに戻ってくる。災厄というギフトとともに。

七、仕事を安定的に続け、プライヴェートの生活も安全に過ごしたければ、秘密は完全に守秘しなければならない。

一〇〇年ほど前の古い人間だから言葉使いも古臭いが、まあ彼のいうことはだいたいこんな感じだ。この原則はまったくその通りだというしかない。僕もいっぺんの異議をさしはさむことなく同意する。しかし、これは言ってみれば観念の上に成り立つ完璧な城の話である。フェッリクスのいう原則はけっきょくのところ原則でしかなく、定義は定義でしかない。それを使う我われが原則から外れた存在であるのだから、原則は原則のまま存在することはできない。それが我われが生きている実社会の原則なのだ。




分かる人にはわかると思うけれど、上の7つの原則はバイスティックの7原則のもじりである。なんでこんなものを引っ張り出してきたかというと、実は今日書く原稿のネタに困っていたからである。そういえばむかし介護小説を書いたな、と思って箪笥の奥の方から引っ張り出してきたのだ。

なにはともあれ、この介護小説は読んで面白かったぞ、というのがあればぜひ教えてください。

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