介護家族インタビュー集1 前半 西村 早苗さん

「25年間主人の命を守って、繋いできたという自負があります」

西村 早苗(当時75歳)  

西村早苗さんの夫は要介護5である。今年の春に夫が特別養護老人ホームに入居するまで、在宅で介護を25年続けた。25年間。人が生まれて成人し、結婚して子供がいてもおかしくない年月である。特養入居後も訪問して、できる範囲の身体介護を続けている。

西村さんは西宮市にある介護者同士が話し合う場である「つどい場さくらちゃん」に通っている。さくらちゃんでは家族とその要介護者の方たちが団体旅行にいく。西村さんご夫妻も数年前から毎年旅行に行った。夫は施設でも妻の顔を見ると以前行った「台湾旅行に行きたい」という。構音障害があってそんなにちゃんとはしゃべれないのだけれど、妻にはちゃんとわかるのだ。

介護保険が始まる前から夫の介護を続けてきた西村さんがなぜいま施設入所を決めたのか。そして介護事業者にどのような思いを持っているのか。「在宅での介護はやりきった」、と考えざるをえなかった末の施設入所。その彼女の想いとは。

聞き手 東野真吾

西村さんご夫妻インタビュー用 のコピー

主人は兵庫県の鉢伏スキー場のふもと出身です。 高校をでてから神戸市や尼崎市の会社を転々としたみたいです。結婚したときは彼が28歳で私が25歳のときでした。私と結婚した時には神戸の元町駅にある旅行会社に勤めていました。そして主人が33歳のときに旅行会社を立ち上げました。

あの時代の人たちはみんなそうだと思うんですが、我が家に滞在するのは寝る時間だけというような、そんな生活でした。子供が寝てる間に出て、また寝てる時に帰ってくるような仕事でした。子供がまだ幼稚園くらいの小さい時、日曜日に主人が朝ゆっくりしていたら、「お父さんまだ帰らないの」って子供が言うんです。主人が「お父さんの家はここだよ」と言ったら、「違うよ。お父さんの家はバス乗って電車乗っていく向こうの方だよ。バイバイお父さんまた来てね」と言ったくらいです。

――ご主人は旅行に興味があって会社を立ち上げられたのですか?
それがよくわからないんです。仕事を転々としている間は自分に合う仕事に出会わなかったんでしょうね。旅行会社に入ったら多分その仕事が合ってたんだと思います。友達には「お前にぴったりの仕事を見つけたな」と言われていたので。主人は結婚した当初から独立するまで、1か月のうち3分の1ぐらいしか家で寝る日がなく、3分の2ぐらいは仕事先に行っているという感じでした。

私と子供2人がインフルエンザにかかって、3つ枕をならべて寝込んでいた時に、主人は「俺の飯はいいからな」って言って家を出て行ったんです。でも「じゃあ私たちのご飯はどうするの」って思うんですけど。主人はそれが最大の優しさだと思っていて、俺のことは気を使わなくてもいいよって出ていくような人でした。まさに高度経済成長が作り出した男の人という感じでした。

ーーご主人はどこそこの旅は楽しかったとお話されたことはありますか?
それがないんです。ずっと後になってから、主人に「今まで日本国中いろんなところに行ったと思うけど、私を連れて行ってやりたいなと思った所はある?」と聞いたんですが、「無い」とひとこと言っただけ。

結婚して15年経ってから沖縄旅行に連れて行ってもらったことがあります。初めて連れて行ってもらうから嬉しくてワクワクしました。でも現地につくと、主人はすすーーと足早に進んで行ってしまうんですよ。有名な鍾乳洞があって、私は初めて入ったからゆっくり見たかったんです。それなのに主人は自分で勝手に行ってしまうんです。

私は主人の服を引っ張りながら「ちょっと待って」と言いました。でもどこに行っても「ここ来たことある」、「見たことある」って。この人旅行を楽しんだことないんだと思いました。いつもお客様のために、一人で先回りして下見をしたりして、仕事優先で景色を楽しむ余裕もなかったんだろうと思います。旅行自体を楽しんだことはなかったんだなと。

でも車椅子になってから、集い場さくらちゃん(NPO法人集い場さくらちゃん)が企画した旅行に行きました。ここでは楽しんでいたと思います。仕事じゃなく、お客の一人として行けたから。あの旅行は主人が楽しめた唯一の旅行だったと思います。

こんな主人でしたから私はもう不満の塊でした。文句ばっかり言うてたと思います。こんなお父さんなんか子供が成人したら別れてやるぞと思ってたんです。そう考えているうちに、51歳で主人が倒れた。子供が大学生のときです。でも倒れちゃったらもうしょうがない。倒れたもん勝ちですわ。

――介護が必要になった理由は?
主人は今まで5回、脳卒中を起こしています。最初の2回は40代の頃でそのときは社会復帰しました。体質的に血圧や血糖値が高いのだと思います。それとたぶん仕事のストレスも大きかったのでしょう。小さな旅行会社を経営していたので、金策やいろんなことのストレスがいっぱいあったんだと思います。

田舎から出てきて、右も左も電話のかけ方も知らなかったと言うんですね。そういう田舎者が出てきて、人脈も全くない中でそうとう無理をしたんだろうと思います。それで結局ストレスが溜まりに溜まって、血圧が高くなっていったんだと思います。

51歳の時に3回目の大きな発作を起こして、半身麻痺になって介護の生活が始まりました。3回とも社員のボーナスを出した直後に倒れているんです。金策のストレスや、営業でほとんど休むことなく働いていたので、ストレスがそうとうたまっていたのだと思います。

その後4回目は小脳出血を起こしました。小脳なのでバランス感覚が悪くなって、それから完全に車椅子生活になりました。それまでは家の中で誰か付き添っていれば歩行ができていました。でも車椅子になり、今から4年ほど前に脳幹梗塞をおこしてからは声が出にくくなって飲み込みも悪くなりました。

脳幹梗塞をおこしたあと何日間かICUに入り、その後は一般病棟に移りましたが治療らしい治療はしてないですね。結局1カ月ほど入院して、そのあとはリハビリ病院に転院しました。家のトイレは体を180度方向転換しなければ座れないので、それだけ練習させて下さいとお願いして3ヶ月みていただいて。私も病院でトイレへ移らせる方法を教わりました。

――脳卒中の再発のたびに介護が大変になっていったんですね
4回目の脳出血のとき、お医者さんに「あなたのご主人の血管はあまらざしのゴムホースだと思ってください」と言われました。ひび割れがいっぱい入っているから、ちょっとした刺激でも出血するとおっしゃったんです。それぐらいボロボロの血管だと思ってくださいと。だから「リハビリもよう勧めません」と言われました。

いまは主人が77歳、私が75歳です。在宅介護はまるまる25年と2ヶ月くらいだったのかな。いまは特養に入所してから3ヶ月半くらいたちました。いまは物理的に楽になった分、精神的にも楽になってるんだと思います。けど今でも週に2回か3回くらいは主人の所に行ってできるだけの介護をしています。まあ完全に手が離れたと言ったわけじゃないんですけど、やっぱり楽になりましたね。

施設では食事の介助をして、ベッドに寝かせて帰って来るという感じです。気候がいいときは散歩に連れ出します。今までのようにトイレなどで何回も介助して持ち上げることはないので楽になりました。

ーー介護を始められたときはどのように感じておられましたか?
今年が結婚して50年なんですね。そのうちの25年は主人の介護、ちょうど結婚生活の半分、主人の世話をしています。主人が倒れた当初は文句ばかり言ってました。私も若いし、ご近所の同年代の奥さん方は子育てがすんだから海外旅行に行ってきますとか、耳に入ってくるじゃないですか。だからやっぱり腹が立って周りの方から「一番辛いのはご主人なんだから」って言われても、「私の方が辛いわ」と思ってたんです。

若い時は主人にあたり散らしました。「私と子供が熱出してた時にあなたは何もしてくれなかった」とか言って。もし喧嘩になっていたら、手をあげていたかもしれませんね。若い時はやっぱり旦那に甘えたい気持ちがどこかにあるんですよ。でも甘えさせてもらえない生活がずっと続くとイライラして、生活の全ての責任を自分が持たないといけないストレスもあって。

今から12年前に私が大腸癌になったときは、さすがに「神様、私そんなに悪いことしてきましたか」と思いました。でも癌になっても死ぬとは思わなかったんですよ。最終的に退院する時には5年生存率が65から70%ぐらいはあると言われたんですね。でもそのときはあんまり緊張感なく退院したんです。それからいろんな本を読むと再発したら危ない病気なんだと思いましたけど、無知が幸いしましたね。あっけらかんとしてましたから。

今は胆石と腸閉塞に注意しています。胆石は私の場合、大腸がんの手術もしているので内臓が団子状に癒着してるから、大きく開腹手術しないとできないんですね。痛みが出るまでは主人の介護があるので手術はしません、と病院の先生に言っています。

介護について怒ってはいたんですけど、これからの生活をどうしようというあせりとか不安はあんまりなかったです。私は性格がのんきなんです。主人の会社は社員が30人ぐらいの小さな会社です。主人が倒れてからも3年くらいはお給料を少しながら出してくれていたんですが、阪神大震災のあとに旅行業者の仕事がなくなったんです。しかも震災の翌年にまた再出血をおこして完全に車椅子になって、もうこれでしょうがないなと思って主人は会社から手を引きました。

――在宅介護時にはどんな介護サービスを利用していましたか?
介護保険ができるまでの8年間は24時間、私が全部みるしか仕方がありませんでした。高齢者福祉も受けられなかったし、私も50代で若かったので、ずっと自分で世話をしていました。介護保険ができたあとは、デイサービスやショートステイ、訪問看護を利用しました。1ヶ月のうち10日ぐらいを4泊5日とか5泊6日とかの日数に分けて。あとは週3回のデイサービス、月に2回の訪問看護と訪問診療。それと車椅子、マット、手すりをレンタルしていました。家での介護は私がしていたので、訪問介護は使っていなかったです。

でもだんだん年を取ってきて、主人をトイレ介助の時に助けてほしいと思うようになりました。トイレのときは私が下から潜り込んで主人を立たせ、ズボンをおろして方向転換させていたんです。でも主人の足の力が弱くなって、支えきれなくなってきていました。

訪問介護だと時間が決まっているので、排泄時と合わせるのはむつかしい。本当は最後まで在宅でと言う思いはあったので、歳をとって私がしんどくなってきたら利用しようと思っていたんですけど、結局利用することはありませんでした。

ーー息子さんとご主人との関係は?
息子は2人います。子供のころ、父親と遊んでもらったことがないので、最初子どもは「俺はお父さんにかまってもらったことがないから面倒見ない」と言っていたんです。でも社会人になって男が働くということの苦労がわかったみたいで、「お父さんってけっこう大変だったなんだな」と父親のことを見直していったらしいです。下の子供は主人が作った会社に就職しました。主人を知っている方と話をすることがあるでしょう。そういうことに触れると「お父さんてけっこう凄かったんだな」と思うようになったみたいです。

主人が仕事で家にいなかったので、子供と母子家庭みたいな暮らしをしていたんですよ。子供はお父さんをあてにしない、信用していない。でも女親の私には何でもしゃべる。思春期の男の子なのにそれはまずいんじゃないかと思っていたんです。

大学生のときに主人が倒れて半年間入院しました。私はずっと泊まり込みで主人につきっきりです。だから子供が食べる事もほったらかしです。あとでそのときのことを聞いたら子供は「何か食べてたんやろ」って言うんです。「食べるお金をあげてた?」って聞いたら「覚えてないけどもらってたんちゃうか」っていうくらい私には記憶がない。それくらい子供をほったらかしにしていました。でもだからというか、主人が倒れてくれたおかげで子離れ、親離れができた、というところはあります。

ただ介護に関しては私はまだ50歳そこそこだし、子供をあてにしないで自分が全部やっちゃったんです。大学生とはいえ、まだ子供だと思っていたから。主人の事に関してはずっと自分1人でやってきた。子供はお母さんがなんとかしているとずっとみてきたんですね。未だに「お父さんのことはお母さんの役目」みたいになってます。介護に子供を引きずり込まなかったことはちょっと後悔しています。

お正月に一日だけ集い場さくらちゃんに遊びに来ることにしているんです。3年前からその日は1日お父さんの面倒を息子たちにみさせるようにしました。あなた達がご飯食べさせて、夜はこうして着替えさせて、おむつさせって。息子たちは「お母さん大変やね」と言ってくれるようになりました。

後半に続きます

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