「ミニマリストになって家事の負担を軽減したい!」と思う本当の理由

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大介護と言えば、食事、排泄、入浴のことだが、3大家事と言えば炊事、掃除、洗濯である。主婦(夫)にとってこの家事負担をいかに軽減するかというのは大きな問題である。

なにせまいにち、まいにち僕らは鉄板の〜う〜え〜でや〜か〜れて〜、じゃないけれど、毎日いやほど繰り返されるものだからだ。旅行などの非日常を除けば、毎日ノンストップの作業である。
それも家に子供がいる場合なんて強制労働である。家事に加えて小さい子供の相手をするなんて、家庭に労働基準法を作らなかったのは近代国家最大の過ちではないか?

モノを片付けられない妻

僕の妻は結婚する前からモノが部屋にあふれる人だった。彼女の名誉が傷つくかもしれないが(たぶん傷つくだろう)あえていわなければならない。家をつくるためには木を切り倒さなければいけない。何かをつくるときには犠牲を伴うのだ。

北欧のヴァイキングは何か大事なことを行う前には生きた家畜を生贄にした。重要なことであればあるほど生贄も彼らにとって重要なものが供された。ニワトリ、ブタ、ヒツジ、ウマ。そしてときにはヒト。神々を招く大きな祭事のときや、略奪に向かう大遠征の前にはヒトが生贄にされた。彼らにとって生贄にされることは名誉なことだった。死んだ後は賞賛されつつ神々の国(ヴァルハラ)に行けるからだ。

僕は妻との「夫婦関係」を生贄に差し出そうと思う。この文章を書くための生贄である。家庭の恥部を晒したくはないのだが、しかたがない。

妻はモノを片付けられない人間である。今住んでいる家には一つ部屋があまっていて、そこは妻の物入れになっている。部屋の状況はカオスそのものである。モノの量も多いが、問題はあらゆるものが床に散乱していることである。

細かく描写していくと2ページ分くらい使ってしまいそうなのでシンプルに表現すると、大地震のあとに大嵐が吹き荒れ、海が真っ二つに割れ、そのあとに大地が降ってきたような部屋、というのが一番近い。モノの大量虐殺現場。朽ちることも果てることも出来ない永久凍土部屋。

僕としてはとうぜん片付けたい。しかし、自分のモノではないし、状況があまりにも錯綜しカオス化しているので、もはや手がつけられないとあきめるしかない。
毎年春になると村の生娘をさらいにくる山猿達の来襲を諦めている村人みたいなものである。これまでに何度も対抗したが、いつも山猿達が勝つのだ。もはや諦めるしか無い心境なのだ。

ミニマリストってなに?

僕は最近まで知らなかったのだが、「ミニマリスト」という言葉というか考え方が流行っているらしい。聞いたことがない人は「小人が活躍するディズニーの新作映画?」と思うかもしれないが、小人ともディズニーとも関係がない。

僕が言葉の意味を知らずに妻に「ミニマリストって知ってる?」と聞くと、妻は少し小馬鹿にしたように(少なくとも僕にはそう感じられた)、短く小さな声で「知ってる」と返事をした。

それ以上会話は発展しなかった。その時は気にもとめなかったのだが、ミニマリストという言葉を調べていくうちに、妻の反応の理由が分かった気がした。

ミニマリストとは生活用品や仕事用品などのモノを最小限しか持たない人のことを指すらしい。そのなかにもちゃんと派閥というか教義がわかれていて、極限までモノを持たないインドの苦行僧タイプ。自分の気に入ったものだけを厳選して持つ正統派節約派タイプ。必要な物はすぐに買い、要らなくなったらとっとと捨てる、それは消費主義ではないのか?タイプ。

モノを捨てることに躊躇のない僕、躊躇しまくる妻

僕はこれまでに5回か6回引っ越しをしてきたが、そのたびに不要なものを捨ててきた。読まなくなった本、紙の書類、衣類、靴、余分な椅子、もう使うこともなくなったミニコンポ、矢井田瞳のコンサートで買ったポスター。思い出がつまった品も少し。

僕はモノをあまり持ちたくないタイプで、モノを捨てることにもまったく頓着のない人間だと思うが、にもかかわらず、一箇所でずっと生活しているとどうしてもモノが増えてしまう。モノが増えると空間をごちゃごちゃ埋めることになり、それは僕の好むことではない。

ミニマリストのことを知ってから、モノを持たない(=捨てる)ことに興味がでてきて、ゴミの日に普段の4倍位のゴミ袋を出した。それも続けて2週に分けて4回。普段の16倍のゴミの量である。部屋のあちこちに散乱しているものは容赦なく捨てた。自分のものも整理し、使わないだろうなと思うものはヴァイキングのように容赦ない心でゴミ袋に詰めた。

ミニマリスト関係の文章を読んでいて、モノを捨てることが快感だと書いていたものがあるが、僕にもそれが実によく分かる。

「これはあとで使うかもしれないしな」というあとで絶対に使わないフラグを打擲無く払いのけていく。床がすっきりしていく。テトリスをうまく組んだように空間に無駄な隙間がなくなる。快感である。これまでにも「あとで使うかも知れないモノ」を捨てたことがあるが、それで本当にあとで困ったことは一度もない。

それに困るようなことがあればそれは本当に必要なモノということになって、二度と捨てないだろう。だから「いま、このとき」に捨てることになんの躊躇もない。

僕の妻は「いま、このとき」に捨てることができない人間だと思う。たぶん彼女もミニマリストに憧れはするのだろう。でも自分がモノを捨てられないことを今までの経験で知っている。だから僕が「ミニマリストって知っている?」と聞いた時に、皮肉を言われていると思ったのだ。皮肉を言ったつもりはぜんぜんなかったのだけれど。

でも僕の知人にミニマリスト的生活をしている人はいないし、テレビをほとんどみないし(家にはテレビがない)、新聞も読まない。ネットニュースはよく見ている方だと思うけれど、これまでたまたまミニマリストという言葉に遭遇しなかったのだ。

ミニマリストになれば掃除が楽?

モノが少なくなれば掃除が楽になると思う。まあ当然である。まず整理にかかる時間が減る。それにモノの多い部屋の掃除のなにが面倒かというと、床におかれたものをいったん脇によせて掃除機をかけたり、拭いたりすることである。床にものが散乱しているとこれがかなり面倒なのだ。面倒に思って掃除自体の回数が減ってしまう。実に我が家の状況がそうである。

僕は妻のモノ置き部屋にはできるだけ入らないようにしている。掃除が不可能だと諦めているので、そんな部屋の存在を脳内から排除したいためだ。人はそれを現実逃避と呼ぶだろう。呼びたい人はどうぞ呼んでください。人には受け止められない現実だってある。

彼女のモノが彼女の部屋だけにとどまっていれば問題はもっと簡単なはずだった。しかし家の空間というのは精神病院の閉鎖病棟と開放病棟みたいに分かれているわけではなく、モノの移動がとうぜん行われる。

彼女の生活物が共用スペースにももたらされる。いちいち上げていくとキリがないので一つだけ僕が迷惑に思うものをあげると、ハンカチ、ハンドタオルの類が多すぎることである。

男のハンカチは自分のためにもつのではない

僕はハンカチは持たない主義である。ハンドタオルなんてこれまでの人生で持ったことがない。そもそも子供が保育園にはいるまで、世の中にハンドタオルなるものがあることさえ知らなかった。

自分が使わないものには価値を感じられない。しかもそれが家事を増やす原因になっている。洗濯物をよけいに増やすし、とりこんでしまうときにも、ちまちましているわりに一枚ずつ畳まなければならず、数が多いから手間がかかって毎回腹を立てることになる。

そもそもトイレのあとにハンカチ(なりハンドタオル)を取り出し、手を拭く男を僕は昔から信用できない。僕は男がハンカチをつかって手を拭いている姿がどうしようもなく嫌いなのである。

しかし男がハンカチをもつことを否定しているわけではない。あったらあったで役に立つと思う。でもトイレのあとにハンカチで手は拭かない。

こんなことをいうとバカに思われるだろうけれど、なぜ男がハンカチを持つかというと、泣いている女性にそっと差し出すためである。トイレからでてきた時に自分の手を拭くためでは無い。女性としたらそんなハンカチを渡されても気持ち悪いだけである。

僕も高校生〜大学生くらいのときにはハンカチを持っていた。でも幸か不幸か泣いている女性にそっとハンカチを差し出すシチュエーションに出会ったことがない。

泣いている女の子には何度か遭遇したが、そっとハンカチを差し出すタイミングをいつも逃してしまうのだ。僕が泣いている女の子を目の前にしてモジモジしている間に、他の男がやってきた肩を抱いたり、誰もいない教室に2人で行ってしまう場面に多く出くわした。

だから今ではハンカチなんて持たなくなってしまった。だいたいTシャツに短パンなんて軽装にハンカチなんて持っていたらじゃまなのだ(負け惜しみじゃありません、ぐすん)。

ミニマリストは自分のものと他人のものをどうやってわけるのだろう

僕の場合、自分一人で暮らしていれば、ミニマリストになるのは簡単だと思う。机、椅子、パソコン一式、中華鍋、包丁、まな板、数枚の下着と数着の衣類、一足の靴があれば事足りると思う。あとは本棚と数冊の本くらい。それくらいには絞りこめると思う。

でも他人のモノが混在した生活をしていると、自分のモノだけにしぼった生活ができない。それは僕にとって非常に大きなストレスである。昔からそのストレスを感じてきたけれど、子供が成長するに従ってさらにそのストレスが大きくなってきた。自分と自分以外のものとを融和させることに困難を感じる性格らしい。

僕はいつも自分のものと、そうでないものとを分けたいのである。でも現実的に仕分けしてしまうと、離婚して1人で生活するしかなくなる。

いぜん部屋を整理整頓してゴミを出したら、妻に本気で泣かれたことがある。僕が「これはゴミだよな」と思ったものが、妻にはそうではなかったのだ。そのため今でも共用部分にある妻のものには手が出せない。

そうなると片付ることに無気力になってしまう。家族暮らしでミニマルを目指す人はどうやって折り合いをつけているのだろう?と不思議に思う。

一汁一菜、料理の数もミニマルでよい

雑誌やネットで家族暮らしのミニマリストの生活を見ていると、けっきょくモノを極限まで減らすことが最重要なのだと思う。これが絶対条件なのだ。モノが少ないから整理整頓しやすいし、掃除がやりやすいし、洗濯の回数も減るし、炊事も簡単になる。

僕は調理に関してはとくに苦痛を感じない人間で、好きでもあるのだが、それでも毎日栄養バランスを考えて品数を作って、子供に食べさせるとなると負担に感じる。

子供のための弁当を作らないといけないし、お腹がすいたと泣かれ、それをあやしながら台所に向かうのはまったく心楽しくない。ときどき気が狂いそうにもなる。

だから最近は調理もミニマルで行こうと決めた。おかずを多く作ろうとするからしんどいのである。料理研究家の土井善晴氏も毎日の家庭料理は一汁一菜でよいと書いてくれている。

そう言われれば、毎日ハンバーグやらスパゲティやらブリの照焼やら五目そばやらを作り、そこにご飯と味噌汁がつくのはかなり贅沢な食卓ではないか。

味噌汁に具をたくさんいれて食品の数を稼ぎ、あとはたっぷりのご飯とすぐに作れる簡単なおかず一品ですます。これで良いと思うと、つくる手間以上に精神的な部分で楽になった。我が家はこれから基本的に一汁一菜で行くことに決めたのである。

たとえマスオ、波平ペアになったとしても靴下はそろえちゃう

洗濯で困るのが子供の靴下が左右のどちらかなくなってしまうことだ。同じタイミングで洗濯機に入れているはずなのに、洗濯機を開けた時は片方が異次元の彼方へ消えている。これもミニマリストで対応することにする。

そもそも別々のメーカー、別々の種類の靴下にするからいけないのだ。メーカーも色も形もすべてそろえてしまえばもし片方がなくなっても、何の問題もない。たとえサザエさんとマスオさんのペアと、フネと波平のペアが観念的に存在していても、それはそのときの組み合わせでたまたまそうなっているだけである。

もしサザエさんが失われても、マスオ&フネのペアでもいけるし、やろうと思えばマスオ&波平のペアでもいけるようにすればいいのだ。

たとえ形が同じ靴下でも、靴下一枚いちまいにはそれぞれ固有の観念があるのかもしれない。60億の人々それぞれに固有の魂があるように。

でも専業主夫は靴下ごときにそこまでおもんばかってあげられる余裕はない。マスオ&フネのペアになったとしても我慢してもらうしかない。しかしマスオ&波平がペアになって、両者が変な愛に目覚めてしまうと困るだろうな。

ゴールデンタイムの一家団欒のホームドラマが一気に深夜のマニアックな変態ドラマになりそうだ。

波平「なあ、マスオ君、いいだろう」
マスオ「そんな、困ります。お義父さん。横にサザエとタラちゃんが寝ているんですよ」
波平「だから興奮するんじゃないか」
マスオ「お義父さん!ああっ」

みたいな展開になったら困る。東芝は完全につぶれてしまうと思う。

でも僕は東芝とは何の関係もないので、これから買う衣類、とくに靴下は同一メーカー、同一デザインのものにそろえることにして、少しずつ入れ替えていこうと思っている。そしてマスオ&アナゴ、波平&ノリスケのペアも作って深夜ドラマ放送を盛り上げていきたいと思います。

ミニマリストになりたい本当の理由

介護は人のお世話をする仕事である。老人の動きはゆっくりだし、認知症の人もいる。相手のペースにあわせ、自分の時間をそれに使う。そんな仕事が僕にできていたのは、プライヴェートでは身勝手でいられたからだ。

というより仕事を離れたところでは、時間と空間を自分の好きなように管理できていたからだ。いまは在宅ワークで家が職場みたいなものだし、家事も子供の世話もすべて自宅のプライヴェートな時間・空間で完結している。

いや、子供が学校にいったり、幼稚園にいったりする時間があるじゃないか、その間は1人になれるじゃないか、と言われるだろう。家事も工夫して効率よく短時間で終わらせれば、もっと自分の時間が持てるじゃないか、けっきょく家事と育児に追われてヘトヘトになっているのはお前の管理能力の問題だろう、と。

確かに管理能力が高いとは言えない。モノが整理整頓できないのは妻のせいばかりではない。掃除が行き届かないのはミニマリスト的生活を送っていないからではない。毎日の洗濯が辛いのは、自分が使わないハンカチやハンドタオルが入っているからではない。

僕がモノを捨てることに快感を覚え、憧れるのは、捨てるという行為に家事や育児の責任感を仮託しているからだ。
でもいくらモノを捨てて、ミニマリスト的生活を手にしたとしても、家事や育児がなくなるわけではないから、その責任感からも逃れられない。

僕は自分と自分以外のものの責任を分けたい人間なのだ。けっきょくそれが問題なのだろう。

介護の仕事の対象者はどれだけ密接に関わっても、けっきょくは他人である。また僕という介護職自身についても老人側、職場側からすれば交換可能な存在である。でも自分の子供の場合はそういうわけにはいかない。そういった逃れられない責任感というものが僕を圧迫する。これは僕が男だから、というのも大きな理由かもしれない。

機会があればぜひ聞いてみたいのだけれど、子育てを担っている女性はこういう感じの圧迫感を持つことはないのだろうか?

いやいや、私も感じていますよ、という人がいればぜひ話をしてみたいですね。でもまあとにかく僕はミニマリストになりたい。でもみちのりは遠く険しいんだよなあ。

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