宗教の勧誘の断り方は難しい

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がいま外にでるときといえば、子供の幼稚園の送り迎えと買い物。あとは公園で子供の遊びに付き合うときくらいである。それ以外はほとんど家にいて、書き物をしたり本を読んだり、家事をしたり、猫と遊んでいる。なかなか気楽な生活である。こんな生活が僕の人生に入り込んでくるとは考えもしなかった。
娘の通う幼稚園で僕が作った弁当の昼ごはんを食べさせていると、見えるのはお母さんと遊び回っている幼児と青空だけだ。男は僕以外だれもいない。

『美女と野獣』の野獣の気持ちが少しだけわかる。世間からどんどんドロップアウトしていく気がする。いつからこんな辺境の住人になっちゃったんだろう?と涙がでる(嘘です)。でもいまはこの生活を満喫するしかあるまいと思って日々を過ごしている。ガオウ、ガオウ、ガルルルルル。

その話をすると、友人の女の子から「それってすごく孤独なんじゃないですか?」と言われた。僕のことが森で迷った子熊みたいに見えのかも知れない。でも実はそうでもない。なぜなら家にはさまざなな人がやってくるからである。

訪問販売員、新聞の勧誘、排水管の清掃業者、家の壁の塗装業者、ヤクルトのおばさん、塾の営業、太陽パネル販売員、ガスの営業などなど。妻は仕事でほとんど家にいないので、対応は僕がしなければならない。引っ越してきて最初の頃はチャイムが鳴る度にいちいち玄関を開けて対応していた。相手の話を聞き、名刺をもらった。そしてこちらの状況を説明した。細部は違うが結論はみな同じだ。

「いまはうちには必要ないです」

でもいちいち説明するのも面倒くさいし、仕事の途中で手を止められるのも煩わしい。我が家のチャイムにはカメラがついているので、それでどんな相手かを見てから対応するようにした。出るべき相手と出ない(居留守を使う)相手を選別するのだ。最初からそうすればよかったのだが、移り住んだ頃は何が必要で何が不要かを選ぶ余裕がなかった。

ある日チャイムの音が鳴った。カメラを見ると、身なりの良い60代くらいのおばさんと30代前半くらいのお姉さん(と言っていいですよね?)が映っていた。見たことがない2人である。カメラの映像だと不鮮明なのだが、それでも2人とも見事に善人という雰囲気である。それでよせばいいのに、玄関からでて2人の前までいってしまった。

2人はニコニコして待っていた。おばさんはブラウスの上にゆったりしたカーディガンを羽織っている。スカートも長いゆるめのもの。全体がホワイトでまとめられている。髪も自然な白髪だ。しかしその髪型は神々しささえ感じられるほど完璧にセットされていた。美容室に定期的に通っているのがわかる。たぶん最低でも2週間に一度は店にいき、女性自身なんかを読みながら長い時間をかけてセットするのだ。

その間に彼女は何を考えているのだうか?今晩のおかずに何をつくるかということと、孫はいつ来てくれるのかしら、ということだろうか?そして何より神のことだろう。

たぶん彼女は今日のヘアスタイルについても神に感謝する。歩道で車が停まってくれたら、にこっとドライバーに微笑み、次の瞬間には天を仰いで神に感謝する。台所でキャベツをきざんでいるときも神に感謝するし、トイレにしいたマットを洗うときも神に感謝する。夫が便座を毎回降ろさなくても神に感謝しているはずだ。

若いほうの女性もこざっぱりしているのだが、あきらかに普段着ではない。首筋に見えるプラチナのネックレスがやけにキラキラ輝いている。真っ白いシャツの上にはこれまた白いジャケット。ジャケットには茶色の大きめのボタンがついている。デザイン的にみても大きすぎるんじゃないかというくらい。スカートは膝上までの紺色のもの。女性がやせているからか、やけに細い見た目だ。

靴は黒のヒールだが、高さはない。ヒールであることを否定したヒール。アウトサイダー的ヒール。そこには何か特別な意思のようなものが感じられなくもない。彼女の人生観を表明しているような何か。僕は女性の服装には詳しくないのだが(というか衣類全般にあまり関心がない)、その服装には違和を感じてしまう。やけに上半身が前にでる感じなのだ。まるで木星人みたい、と僕は思った。木星人なんてみたことがないけれど。

おばさんが僕に小さい冊子を手わたしてきた。古代ギリシャの登場人物のような豊かな髭を蓄えた人物が書かれている。肩にはトーガまでかかっている。目はこれ以上無いくらい優しそうである。口は半ば開かれていて、唇がとてもセクシーだ。色といい、形といいその唇で耳元に何か囁かれたら、ベッドまで飛んでいってしまいそうである。おまけに彼はこちらにまねきよせるように右手をエレガントに差し出している。

最初はおばさんのほうが話を始めた。というか若い女性のほうは一貫して何もしゃべらなかった。戦争がどうかとか、地震がどうとか、子供さんの成長がどうかとか、何か困ったことがあれば私たちになんでも相談を、とか。その手のどこにでもある宗教のお誘い話である。

相手の名前もどこに所属しているのかもしらない見ず知らずの他人に、ふつうの人は何か困ったことがおこったとしてもなんでも相談しようとは思わない。

僕はソーシャルワーカーなので、「困ったことがあったら相談してください」というフレーズをこれまでに使ったことがある。でも「何でも相談してください」といったことはないと思う。何でも相談されてもこちらは対応できないかもしれない。僕の守備範囲はあくまでも老人介護である。まあ生活全般をカヴァーする仕事だから、相談に対応する範囲はすごく広いのだけれど、それでもできることと、できないことの境界は作っておかないと相手にとっても自分にとってもよい結果はだせない。

まあ神様ならどんな困りごとでも大丈夫だろうし、何でも相談にのってくれるのだろう。便利なものである。でも僕は特定の神を信じていない。いわゆる無宗教者(無神論者ではないと思う)である。目の前にいる女性2人はけっして悪い人たちではないと思う。でも正直にいえば、いちいち相手にしていられない。どこにもたどり着かないトロッコからは早めに降りたほうがいいのだ。時間は無慈悲にすぎていく。

話が長くなるのは分かっていたので、僕はこう言った。

「僕はイスラム教なのでけっこうです」

もちろん僕はイスラム教徒ではない。べつにギリシャ正教でもヒンドゥー教でもバラモン教でもマニ教でもブードゥー教でもなんでもいいのだ。これで引き下がるだろうと僕は思った。でも敵はまだあきらめなかった。しつこいのである。

「まあ、そうなんですか。いつから?子供の頃から?」

「いまからアラーにお祈りをする時間なので」と言って僕はそうそうに家の中に引き上げた。僕のとっておきの変化球をきちんと打ち返してくる。これ以上マウンドにいたら追い込まれるのはこちらである。

僕は新興宗教そのものに対して反対はしないし、宗教は人にとって必要なものだと考えている。生まれる時代が違えば僕も何か信仰をもっていたかもしれない。でも僕は宣教活動には参加しなかっただろうな、と思う。僕にできるわけがないよ、あんなの。家にいるのもなかなかたいへんなのである。

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