介護と子育ては「多面体転がし」?

多面体


ったにないけれどマクドナルドのハンバーガーが無性に食べたくなることがある。それで先週、何度かドライブスルーを利用してしまった。軽い背徳感。ようこそ資本主義の極地へ。

僕が注文したのはハンバーガーとかチーズバーガーの単品のみ。そのせいもあるけれど、外のスピーカーで注文してから商品を手渡されるまでの時間が3分くらいだった。お湯を沸かすインスタントラーメンのほうが時間がかかる。

いくらなんでも早すぎるのでハンバーガーは作り置きなのだろう。それはまあ良いとして、注文→レジで支払い→商品受取りの手順が非常に滑らかである。マクドナルドだから当然かもしれないが、まったく取り付く島がない。「ああ、そうだ、ここはマクドナルドなんだ」と久しぶりに思った。

マニュアルじゃないものを探すほうが難しい
マクドナルドに高級旅館なみのサービスなど求めていなが、気になった点が一つある。商品の受け渡し後、店員にすぐに窓を閉められたことだ。毎回である。

冬だから店員の人も寒いだろうし、早く窓を閉めないと店内の暖気が逃げて暖房効率が下がり、余計な暖房代がかかる。それは電力会社への電気供給量の上昇につながり、ひいては地球温暖化を進めることになり、つまるところ地球上のすべての動植物に多大で深刻な影響を与えることになる。すると人類の進化にも影響が・・・(もういい)。

だから早々に窓を閉められることについて気にするほうがおかしいのかもしれない。でもこのままだとちょっと癪に触る(うーん、心が狭い)。そこでググってみた。

それによると、商品を渡したあと窓を閉めるのはレジが近くにあるから、という防犯上の理由みたいである。ちゃんとマニュアルになっているらしい。少しググってみただけなので本当かどうかの確証はないけれど、相手はマクドナルドである。マニュアル化されていないものを探すほうが大変だろう。だからたぶんマニュアルになっているのだと思う。

マニュアルに従っているのは客の方
ハンバーガーを食べながら、まるで玉転がしみたいだなと僕は思った。するするっとなめらかに最小の力で物事が進む。玉転がしにはもちろん球体を使う。摩擦を考えるとそれが一番合理的だし、球体に加えるエネルギーを最大限にするためだ。もし角ばっていると摩擦が大きくなり、そもそも転がすことができない。大きな力が必要になる。

僕たちはマクドナルドのマニュアル的な扱いに慣れているし、そういったお互いの理性的な了解があるからこそ、スムーズさが約束される。マニュアルに従っているのは店員だけではなく、客であるわれわれも同様なのだ。

だから僕も窓を閉められたくらいで苦情は言わない。あまり良い気はしないけれど、マクドナルドとはそういうものだと思って納得する。僕は球体であることを求められているし、その要望に応えることもできる。それが一番効率的だからだ。

介護と子育ては多面体転がし
さて、介護や育児を玉転がしにたとえてみるとどうなるか。これはそもそも玉転がしならぬ多面体転がしになると思う。要介護老人や小さい子どもたちはこちらが求める球体にはなってくれない。どう考えても彼らは三角形か四角形、五角形の多面体である。

とうぜんコロコロ転がらない。動かすためには多面体の一面の下に手を入れ、よっこいしょと持ち上げ、向こう側に倒す。それを繰り返す。多面体だからまっすぐには進まない。進行方向をいちいち確認し、持ち上げては倒す作業を繰り返さないといけない。はっきりいって疲れる。なんでこんなことしているんだと思う。寄り道が増える。またまた疲れる。自分が正しい方向に進んでいるのかさえわからなくなる。もっと効率の良い方法がないのか?と思う。途中で投げ出したくなる。でもそんなわけにもいかない。そのプレッシャーがよけい元気を奪う。誰かに代わってほしいけれど、代わりはいない。

基本路線であきらめる
でも途中で投げ出さず、経験を重ねるうちに、力の入れ方や抜き方がわかってくる。また転がすタイミングや、どの方向に押せばいいかのコツも身につく。トラブルに対応する力も上がる。大変なのはあまり変わらないが、最初のころよりも負担感は減ってくる。

そしてこれが一番のキモだと思うのだが、だんだんあきらめてくる。「これはもう今の状況を受け入れるしかないんだな」という諦観である。

「いつも行きたい時に遊びにいけたのに赤ちゃんがいるから行けない」
「子どもがかまって欲しがるから、読書したり映画観たりがまったくできない」
「子どもが小さいから食卓に辛いものや甘いものが出せない」
「ちょっと叱ったら腹いせに畳に尿失禁された」

「母親が家の中で倒れているという電話が今月で4回もあった」
「冷蔵庫の中は冷凍コロッケでいっぱいなのに、今日も買ってきた」
「ホームの隣の人の部屋からティッシュをまたとったんだって?」
「尿とりパッドは捨てるよう言っているのに毎回洗濯機にいれられる」

上のような状況を目の当たりにした時、要は「子育てとは(介護とは)こんなものだ、やれやれ」と基本路線であきらめられるかどうかである。

多面体は多面体
多面体を球体にできれば楽である。だから角を切り取ろうとしたり、ヤスリをかけてみたりした。冷静に論理的に球体であることの利点を説明し、ときには怒り、脅し、泣き落としさえ使った。でもどうしても多面体である彼らを球体にはできなかった。だったらこちらが諦めるしかない。多面体の存在を認め、それなりに付き合っていくしかないのだ。

僕の子育てはやっと「基本路線であきらめる」境地に至れたと思う。と言っても子育てに人生を捧げた覚えはないので、「やれやれ」なんて悠長に構えられないこともある。日に3回も畳に飲み物をこぼされたらイライラもする。それはまあしかたない。

介護者の方も介護に人生を捧げないようにしましょう。あまり良い結果はみてこなかった。あくまでも「基本路線であきらめる」ということである。でも冷蔵庫いっぱいの冷凍コロッケがあるのに、また買ってこられたらイライラを通り越して僕でも怒る。子育てと老人介護をくらべると、老人のほうが難しい。

効率か、非効率かの葛藤
僕は非効率がいいとは言わない。例えば風呂を沸かすのに山に入って枯れ木を拾い、木を斧で割って薪を作りたいとは思わない。ボタンを一つ押せば、適量・適温のお湯が自動で貯まる効率化された社会がいい。快適であることは疑いようがない。でもこのあまりにも効率化された社会では、誰かが意識的に非効率が持つ価値を信じ、担う必要があると思う。つまり効率化(つまりマニュアル化)できない老人介護や子育てなどである。

国はAIにケアプランを作成させたり、介護ロボットを導入したりと老人介護を効率化させようとやっきになっている。「個別支援が大事」とかいいながら、できれば十把一絡げでマニュアル化できれば楽なのに、という意図がそこかしこに感じられる。

そのむなしい一人相撲は滑稽なのだけれど、影響を受けざるをえない介護関係者は笑ってはいられない。いずれにしてもこの「効率」と「非効率」の戦い、というか葛藤は永遠に続くと思う。

でも国は介護にはAIやらロボットの導入をすすめるくせに、子育てにはそういうことはないですね。どうしてだろう?大人の事情?




P.S.
AIやらロボットの話が出たので少し。
僕が思うに老人介護を最大限に効率化させる方法は、すべてを「全介助」にすることだと思う。一部介助だと実にさまざまなバリエーションが発生してしまうので禁止し、全介助に固定。これなら介助方法が単純化でき、AIで把握可能になりパターン化できる。

この前提があれば、ケアプランはAIまかせにできるし、介護ロボットも導入しやすい。なんせパターンが決まっているから。AIに管理され、ほとんどの作業をロボットが行い、どうしても人間が行う部分は安い労働者を雇ってまかせる。施設長は部屋から一歩も出ず、ロボットが正常に動いているかを計器でモニターする。

これが一番効率的な老人介護の現場だと思います。考えていたら面白くなったので、次回はロボットに子育て、介護をさせる未来図を考えてみます。

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