社会的疎外感、あるいは主婦はなぜランチに集まるのか?

がいま住んでいる家には小さい庭があって、そこに洗濯物を干している。でも日当たりが悪く、とうぜん洗濯物の乾きが遅い。これは主夫として死活に関わる問題である。曇りの日は気が重くなる。屋根がないので雨が降れば致命的である。でも曇りだろうが雨だろうが洗濯物はたまり続ける。しょうがなく近所のコインランドリーに行くことになる。正直洗濯物を乾かすのにお金を使うなんて馬鹿らしいと思うけれど、仕方がない。洗濯物が乾くまでは30分ほどなので、店内で子どもを遊ばせつつ待つことになる。

日曜の朝の公園
30分とはいえ貴重な時間だ。一人で待っているなら本を読んだり、何か考えごとをしたりして時間を使える。僕は誰かと話をするよりも、一人で何かしている方が好きな性格なのだ。しかし、子どもはそんなことはおかまいなしである。遊んでほしいとからんでくる。とてもじゃないけど、本を読んだり考えごとをしたりなんてできない。とうぜんイライラする。

子どもに悪意はない。子どもが親と遊びたいと思うのはごく自然なことだ。その自然につきあってあげたいと思う。僕もこんなことでイライラしたくない。子どもに不適切な関わり方をしたくない。だから難しいことはなにも考えないようにしようと努める。頭の中をからっぽにする。自分は日曜の朝の公園だと思うようにする。そこは自由な空間なのだ。

非働き手への感覚にうまくシフトできない
でもそんなことを毎日のように繰り返していると、時間の使い方がこれでいいのかと真剣に考え込んでしまう。10年以上ずっと働いて生活費を稼いできた。非働き手の感覚にシフトするのは簡単なことではない。お尻の穴がむずむずする。

僕には子どもが二人いて、上の子は小学2年生でシュタイナー学校というちょっと特殊な学校に通っている。ここの学校は休みが多く、夏休みは1ヶ月半、秋休みが1週間、冬休みが1ヶ月もある。「保護者と教員で一緒に作る学校」がスローガンだから、一般的な学校よりも保護者が学校に関わる時間が格段に長い。

下の子は保育園に途中入園ができなかった。とうぜん無認可保育園にいれると利用料がそうとう高くつく。だからどこかに働きにでかけることがちょっと難しい。フルタイムは困難でパートタイムで働くとしても上の子が休みのときは仕事ができない。非常に不安定な状況なのだ。つまり働きにくい。

家事と介護が似ているところ
食事作り、掃除、洗濯、子どもの遊びに付き合っているだけで一日が終わってしまう。主婦(夫)経験がない人には理解しにくい時間の流れだと思う。僕も主夫になる前はそうだった。仕事せずに子どものをみて家事をするだけなんだから、気楽なもんだろうと思っていた。でもその認識は甘かった。外の仕事と主婦業は使う筋肉が違うのだ。時間の流れ方も違う。子どもの時間に合わせる必要がある。
それに家事は介護と同じで、いくらでも手をかけられるし、いくらでも手を抜くことができる性質を持っている。

例えば掃除。Aさんは毎日すみずみまで掃除機をかけ、ほこりをはたき、窓をふき、床もふき、浴室の壁も洗い、浴槽は毎回雑巾で水気をふきとり、トイレ掃除もし、玄関をほうきではき、窓のサッシまで掃除する。Bさんは一週間に一度掃除機をざっとかける程度。他の部分は汚れているな、と思ったら掃除するくらい。同じ掃除という名前でも、AさんとBさんでは手間がまったく違う。

介護も同様である。例えば排泄介助。Aさんは排尿、排便のタイミングを常に考え、ピタリのタイミングでトイレへ誘導し、便器に移乗させ、排泄しやすい安定した姿勢をとらせる。便器にしっかり座るためには下肢長と便器の座面の高さを考慮しなければいけないし、手すりの位置も本人にあった場所に設置しなければいけない。便秘にならないよう水分量も気をつけなければいけないし、運動ができるようレクリエーションも工夫する。

ひるがえってBさんにとっては決められた時間に機械的におむつ交換することが排泄介助である。それ以上でもそれ以下でもない。介護は家事と同じでいくらでも手をかけられるし、いくらでも手を抜けるのだ。

外でご飯が食べたい
僕は介護の仕事は真剣にしていたが、家事はいいかげんなほうである。掃除機を毎日かけるわけではないし、トイレ掃除も雑だし、とりこんだ洗濯物は山になっている。食事はできるだけ毎食手作りしようとしているが、それも最近は外食に頼ることが増えてきた。食事作りをあまり手間だと思わない人間なのだけれど、それでも外で食べたいのである。

外食はお金がかかるし、どんな材料や調味料を使っているか把握できない。理想は3食自分で作るべきだろう。でもそうすると、家にいる時間が長くなる。物理的にも精神的にも子どもとの狭い閉じられた世界にとどまる時間が増す。外食すれば外に出ていけるし、飯炊きの責任が放棄できる。主夫という役割から一時的に解放される。今は主婦がランチを外で食べ、主婦どうしで井戸端会議をしつつ愚痴りたくなる気持ちがすごくよくわかる。外でランチするのは主婦が感じる社会的疎外感の緩和政策なのだ。

僕の状況は一人で介護を担う男性と似ている。仕事をしていない男性介護者は一般的に社会的疎外感持ちやすい。その点、女性はわりとガス抜きする場所を作れる。男性の場合はどんどん介護の世界しかなくなっていく傾向にあるが、それに比べれば女性のほうが生き方がうまいのだろう。

外でランチは健全な主夫生活に必要なコスト
家の中で介護(あるいは家事と育児)だけを続けていると、主観の世界に落ち込みやすい。それが悪い方向にいくと虐待になる。虐待までいかなくても不適切なケアになる。僕は介護職としての経験から、不適切なケアにならないよう外食することを選んだ。多少家計に負担をかけるほうがまだマシである。

主観の世界だけに落ち込まないこと。自分を相対化してみること。外で食事をしていると、同じ年頃の子どもを連れた主婦に出会う。子どもの機嫌が悪いのをあやしている場面をみると、「ああ、他の家庭もうちと同じだな」と思える。そうしてなんとか正気を保っている。

外食を選択するのはこういった重要な理由がある。けっして責められるようなことはしていない。不適切ケアをしない。あまつさえ虐待に走らないよう正気を保つためである。そのための必要なコストである。この文章を読むであろう僕の奥さんのためにこんなにしつこく書いているわけではない。

そして井戸端会議をするかわりにこうした文章を書いている。
さて、今日はどこに食べに行こうかな。

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