映画で考える赤ちゃんと要介護老人の共通性

回は赤ちゃんと要介護老人の共通性について書いた。生物学的にみると赤ちゃんと要介護老人は違う。社会的にみても違う。経済的にみてもやはり違う。でも僕は感覚的に両者に共通するものを見出す。そう、感性的に。

前回のような文章の説明だとどうしても非感性的なものになってしまう。文章をおって、論理的に内容を把握しなければいけないからだ。もっと感覚的に把握する手段はないものかと考えていると、あれがあるじゃないかと思った。

ベンジャミン・バトン
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(日本公開2009年)
監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット

デビッド・フィンチャーの変化球?
離婚やら親権やらでいまけっこう大変な目にあっているブラッド・ピットが主演した映画。観た人は多いのではないだろうか。僕はとてもおもしろくこの映画を観た。

デヴィッド・フィンチャーという人は意外に器用な映画監督なんだなとこの映画を観て思った。デヴィッド・フィンチャーと言えば『セブン』や『ファイト・クラブ』が有名(どっちも主演はブラッド・ピット)、どちらの映画も猟奇的でアナーキーでぶっとんでいる。

フィンチャーの映像的特徴は画面全体をとりまく暗い色調で、この『ベンジャミン・バトン』にもそれは共通している。でもスト−リー展開はまともというか、『セブン』や『ファイト・クラブ』のような猟奇的・サスペンス的な要素はない。脚本を担当したのが『フォレスト・ガンプ』と同じエリック・ロス。あとから知ったのだけど、そう考えるとなるほど物語の展開が非常に似ている。
一人の人間がさまざまな人間に出逢い、ヒトリスカルな場面を経験する。そしてヒロインとすれ違い、結ばれ、またすれ違う。観客には明確な「分かりやすい解答」は用意されていない。

年をとるごとに若くなっていく男
映画を観たことがない人向けにいちおう説明すると、80歳の老人の姿で産まれた主人公=ベンジャミン・バトンの人生譚。アイデアとして面白いのは年をとるごとに「若くなっていく」ところだ。原作はスコット・フィッツ・ジェラルドの小説。僕が知っているのは映画版なのでこちらをベースに。

クイニーは老人ホームに住み込みで世話をする寮母(この言い方が一番合う)で、ホームの階段に捨てられていた赤ちゃんを拾う。子どもが持てなかった彼女はその子を育てることにする。このクイニー役はタラジ・P・ヘンソンという女優。日本ではあまり有名ではないと思うけれど、僕の好きな女優さん。米ドラマ『パーソン・オブ・インタレスト』のジョス・カーター役がよかった。他には『Empire 成功の代償』にも出演している。若くもないし美人でもないんだけど、とても実力がある。和包丁に例えれば小出刃。刺し身包丁のように優雅でもなければ菜切り包丁のように存在感を前に出すわけではないけれど、きっちり良い仕事をする。そういえばどの役でも肝っ玉母さんをしている。

小さな老人ベンジャミンは入居者の老人たちに囲まれて成長していく。彼の場合、成長とは若返ること。ベンジャミンが拾われるのは老人ホームである。彼は身近な人々が次々に亡くなっていく環境の中で育つ。彼が子どものときに(もちろん姿は老人である)ホームに入居している祖母の見舞いに来た少女デイジーと出会い、いろいろあって(人生は直線ではないのだ)、2人は結ばれ娘もできる。しかし年をとるごとに若くなっていくベンジャミンは自分が将来デイジーのお荷物になると言い残し、どこかに去ってしまう。

10歳くらいの子どもにまで年をとった彼が児童福祉局に保護され、老人になったデイジーが保護者になる。ベンジャミンには物忘れがでていた。デイジーのことも覚えていない。年齢的に考えれば認知症。でも子どもの姿をしているから、外見からみれば年齢相応の認知機能だったりする。僕の目からみれば認知症の描写に納得いかないところもあるけれど、映画的にここらへんはうまいと思った。

保護されたあとの生活の場はベンジャミンが拾われ育った老人ホーム。後にデイジーも入居し、ベンジャミンの世話をすることになる。2人が最初に出会った時はベンジャミンが老人、デイジーは子供。晩年にはそれが逆転しているという妙。そしてベンジャミンは赤ん坊の姿になり、デイジーに抱かれたまま寿命で死ぬいう話。看取ったデイジーの姿がなかなかに切なかった。

教訓さがし
この映画にはいろんな教訓があると思う。例えば以下のような教訓を見出すことができる。

遠回りをして、求めていたものを手に入れても、また離れていく。自分のものになっていた瞬間はとても短い。その短い時間は虚像だったのか?しかし虚像であろうが実像であろうが、それが心の拠り所になっていることは確かだ。だから過ごした時間は無駄ではない。


何歳になっても何かを始めることは遅くない。外見はあくまでも一つの記号にすぎない。人は外見に価値を見出すし、確かに価値は存在するのだけれど、でも真の価値は自分自身の行動によって作られる。

死の世界
でも僕が一番印象に残ったのは映画全体を貫く死の匂いだ。死がこの映画の通奏低音であることは間違いない。主人公が老人の姿で生まれてくるところからすでに死が象徴的に描かれている。
彼が育つのは老人ホームで、そこでは彼の成長とは反比例するかのように周囲の人たちは衰退し、そして死を迎える。出会いがあれば必ずその別れが描写される。ベンジャミンが余命少ない実父と海を一緒にみる場面もそう。育ての母クイニーの葬式。デイジーとの別れは2度もある(子どもができた時と老衰で死ぬ時)。

ベンジャミン・バトンの世界は死で満ちている。直接的な死、間接的な死、象徴的な死。生はみじかく、もろく、儚い。ベンジャミンとデイジーはお互いに深く愛し合い、お互いが魂の片割れと思いながら、デイジーはベンジャミンがいなくても人生が終わったわけではなかったし、ベンジャミンもけっきょくはデイジーとの繋がりの記憶を失ってしまった。

愛こそが至上のものだと言う人がいるけれど、この2人をみれば愛だってもろく、はかないものだと思ってしまう。だったら僕たちの生にはどんな意味があるのだろう?けっきょくはすべて失われてしまうものじゃないか。

受け継がれるもの
映画は死の床にあるデイジーが一冊の日記を娘に読んでもらうところから始まる。日記はベンジャミンが書いたものだ。デイジーが少年の彼を保護したときに受け継ぎ、それを娘に読ませることで引き継がせた。本当に残るのは記憶とそれに付随する感情だけなのかもしれない。形を変えても、記憶や感情はまた誰かに受け継がれていく。なぜなら僕たちはそれ無くして生きることはできないからだ。

僕たちには自分たちの生の意味を残すことが出来る。それも努力次第でより良い形で受け継がれるよう残すことができる。それならこの生にも意味はあるのではないか。意味があると思えるのではないか。

人は確かに生まれたときは何も持っていないかもしれない。しかし生まれたときと同じように何も持たないまま死ぬわけではないのだ。

これが僕がこの映画から得た教訓。

赤ちゃんと要介護老人の共通性について、という冒頭と最後がつながらなくなってしまった。まあこういう日もあるということで。

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