初産で寝込んだ話

たして助産院で妻の出産に立ち会った夫が世間にどれだけいるのか知らないけれど、これはなかなかの経験である。僕は2回も経験してしまった。人がわざわざ助産院で出産することを選択する理由はいくつかあると思う。

病院では陣痛促進剤、下剤の投与、会陰切開(妻はこれを嫌がった)などなどあり、それが嫌だという理由。助産院ならよけいなことはせず、自然に産めるから。フリースタイルのお産が良い、家みたいで落ち着けるから、出て来るご飯が手作りで美味しい、出産後も助産師さんに直接アドバイスもらえるからなどなど。

今は会陰切開を積極的にしない、薬も使わない産婦人科病院も増えてきていると聞く。それでも妻は助産院を強い意思で選択した。だから僕はその意思を尊重することにした。リスクを考えなかったわけではない。どんなリスクがあるかをわかった上で選択したつもりだ。

妻は「助産院では自然なお産ができるから良い」と言ったけれど、僕はその意見に諸手で賛成していたわけではない。自然というのは優しくない。ちゃんと体力があって、病気などのリスクを持っていないなら「自然」に産めると思うが、そうでないなら医療管理を受けるべきだ。たまたま妻は体力があり、産むのに障害になる病気などがなかっただけだ。それでも出産にはリスクがつきまとう。

お産と要介護老人の排便姿勢の共通点
結果的に僕が助産院を選択したのは、介護職としての経験が大きく影響していたと思う。要介護老人には余計なことはしないのが一番いい、という価値観と助産院での出産スタイルには共通するものがあった。例えば産む姿勢である。出産シーンでよくみる分娩台に仰向けに寝転がったまま産むというあれである。

その姿が要介護老人が下剤を飲まされ、ベッドに横になったままの姿勢(つまり受け身)でオムツ内に排便させられる姿と重なった。ベッドに仰向けになったままの姿勢の何が問題かというと、機能的に便が全部出せないことにある。我われが排便するときは必ず肛門を地球の中心に向けるが、それは重力を利用し便の重さで排便しやすくするためでもある。

それができないのが臥床状態での排便だ。そのためいつまでも便が腸内に残り、便秘状態が続く。するとまた下剤が盛られる。下剤がないと排便できなくなる悪循環におちいる。

こういった重力を利用できない姿勢は悪である。座れる老人はきちんと座らせるのが介護職の最低限の責任なのだ。そういう基本的なことをしないから、はずせるはずのオムツがはずせなくなっていく。

出産も基本的に同じで、赤ちゃんの重さを利用したほうが産みやすいはずなのに、きほん仰向けの姿勢であまり動けない病院での出産は避けたかった。助産院での出産はいろんな姿勢をとった。自分がいちばん生みやすい姿勢を試すのだ。最後にはウンウンうなっている妻を僕が正面から抱っこするような姿勢をとった。・・・あれは重かった。

いよいよゴルフボールの出番
陣痛は夜中の早い時間から始まり、助産院にうつって産まれたのが翌日の昼頃だった。介護施設の夜勤の1回分である。しかし確実に夜勤の30倍は疲れた。最初から最後までお産につきあったのだ。疲れないわけがない。

陣痛の傷みはかなり強かったようで傷みが襲ってくるたびに持参したゴルフボールをお尻に当てるよう妻に指示された。強く押し付けながら腰をずっとさすらなければいけない。それがエンドレスに続いた。腕はつかれるし、睡眠不足だし、いつ終わるともしれないし、正直もういいかげんうんざりした。
でも妻がウンウンうなっているところでそんな顔をしたら、あとで何を言われるかわかったものではない。

「あなたはわたしがあんなに苦しんでいた時にうんざりした顔をしていたでしょう」

死ぬまでこう言われ続けるのだ。そんなことを考えただけで寿命が縮んで早死にしてしまう。

ゴルフボールの役割が終わったのはやっと子宮口が開いてきたときである。しかしこのあとも僕の仕事は終わらなかった。というかもっと大変になった。産むためにいろいろ姿勢を変えるから、僕もそれに付き合うことになった。いきんでいないときは腰をさすり続けた。なんでこんなことしなくちゃいけないんだと思うが、もちろん顔には出さない。大人になるとちゃんとそういうことができるようになる。

トラウマ注意
出産につきあって一番印象的だったのは「血」である。赤ちゃんが出てくる時に一緒に血も出る。輸血パックに入った暗赤色の血液に温度と糸をひくくらいの粘りを加えた血が見える。それが助産師の手についたり、妻の肌の上にもついている。血を見ることになるなんて聞いていなかった。びっくりである。

僕は介護職であって医療職ではないので、血を見る経験はほとんどない。友人で血を見ると失神してしまう男がいるが、そんな人間があれをみたらトラウマになると思う。僕でもちょっとひいた。グロテスクと表現してもいい。

でも確かにグロテスクなのだけれど、別に嫌悪感はなかった。「ああ、グロいな、ナマナマしいな。あんなに血が出るのかよ、聞いてないよ。大丈夫か?」という感想だけだ。こういう一連の文字通りナマのお産の一部始終を見ていると、月並な言い方だけど「出産ってたいへんなんだな」と思った。

「自然」を選択するならまず体力
そういうのが頭だけじゃなく腹の部分で理解できた。本当に理解する感覚というのは、体の複数の部分で同時に行わなれるのだ。こういう実感のしかたが大事だと思う。出産に立ち会わなかったり、分娩室の外側で待っているだけは出産のダイナミズムは一生経験できない。何度も経験したいかと言われると、「お腹いっぱいなのでもういいです」と辞退しますけど。

出産後、へその緒を切り、子どもを抱いた。助産師さんからは「落ち着いているわね。介護職だからかな?」と言われた。しかし僕が落ち着いているように見えたのは、ただただ疲れていたからだ。

ペース配分を知らない初心者がフルマラソンを一気に走りきったあとの虚脱感。夜の山中を肉食獣に追われ、やっと朝になって人家を見つけた時の安堵感。1週間続いた便秘がやっと終わったような脱力感。

そんなものがないまぜになり、単純に無駄な動きができなかっただけだ。そして翌日から僕は寝込んでしまった。文字どおりダウンした。妻のほうは「出て来るご飯が美味しい」とかなんとか言ってピンピンしていた。

男が自然な出産につきあうのは疲れるのだ。体力がないととてもじゃないがつきあえない。いや、ほんと。

コメント


認証コード5085

コメントは管理者の承認後に表示されます。